無意識日記々

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隠れていたりいなかったりな話

久々にマハヴィシュヌ・オーケストラの1stを聴いてテンションが上がっている。メロウな曲もドラマティックで泣かせるが、やはり冒頭一曲目とB面で聴かれる、キチガイとしか思えない楽器陣総攻撃ハイエナジーニゾンとそれを背後から更に攻め立てる「叩きゃいいってもんじゃな"ぁ"」なビリー・コブハムの火事場泥棒のようなドサクサ感満載のブルータル・ドラムの破壊力。ジャズ・ロックの頂点と呼ぶに相応しいとんでもないハイテンション。思わず「いやっほーっ!」と叫んでしまいたくなる。これなんだよなぁこれ。

という私は勿論インスト大好きっ子である。特にベースラインには五月蝿い。TM NETWORKGet Wildもこの日記で何度「あのブリッジのベースラインがいいんだ」と力説した事か。Led ZeppelinだってDazed And Confusedだ。どこまでも終わらないあのジョン・ポール・ジョーンズのベースラインがあればこそジミー・ペイジジョン・ボーナムがあそこまで暴れられる。破天荒は支えられる大地があってこそ成し遂げられるものなのだ。

ヒカルとは、そこの趣味が大きく違う。何度も論じてきたように、ヒカルはまずパーカッションからリズムを作り始める。「スネアの切なさ」なんていう名言が生まれるのも、リズムの中からメロディーを導き出すからだ。となるとベースラインは、ルート音主体の、時にキックの陰に隠れる程度にしか鳴らされない地味なものになりがちだ。ひとつだけの楽器を抜き出して聴いた時、いちばんヒカルの曲名がわかりづらいのは間違いなくベースだろう。それ位に特徴がない。


桜流しにおいて、Paul Carter as BENBRICK によるアイデアは後半の主題ではないかと指摘したのも、以上の事が念頭にあったからだ。ヒカルは、あんなメロディアスなベースラインを骨格にした曲の作り方は(あんまり)しない。フレーズ自体が他人のものかもしれない、というのと同時に、あれが最低音部として楽曲を支えているという構造自体があまりヒカルらしくないのである。

実際、フレーズ自体の「ヒカルらしさ」を汲み取ろうとするのは危険である。確かに、特有の音運びがあるようにも時々思うが、それはコード進行レベルのようでもあり、ヒカルの"癖"とまでは言えそうにない、というのが正直な所だ。だって、PassionとWonder'Boutを書いたのが同じ人っていうんだよ!? 経緯というかヒカルの作曲の歴史を知っているから受け入れられているけれども、もし今挙げた2曲を一度に聞かされていたとしたら私は決して同じ作曲家が書いたものとは信じられないだろう。そこが凄い。

例えば、モーツァルトはいつどこで聴いてもモーツァルトだ。残した楽曲数が膨大な為、未だに彼の曲の大体は知らないのだが、いつ初めて聴いても「あ、モーツァルトかな」とわかる。それ位に特徴のある音運びをする。それが偉大な作曲家というものだ。

ところがヒカルにはそれがない。たったひとつ、総てを"あの声"で歌っているからというのが、我々に認識出来る共通点である。もし他の歌い手に歌われていたら、まず間違いなくヒカルの曲だと認識出来ない自信が俺にはある。自慢にも何にもならないけれど。

ならば、こんな壮大なプロジェクトも思い付く。十年位かけて、総て異なる偽名で年一曲ずつ位誰か他の楽曲を提供し続ける。そして、10年経ったらそれらの曲をヒカル自らが歌ったアルバムをリリースするのだ。最初、過去10年のヒット曲を宇多田ヒカルが歌う作品が出るものとばかり思っていたリスナーは、そこで初めてそのカバーアルバムがセルフカバーアルバムだと、いや"オリジナル・フル・アルバム"だと気付かされるという…壮大だが、まぁ実現は無理かなぁ。素晴らしくドラマティックだろうなぁとは思うのだけど。


話が逸れた。ベースラインの話の筈だったのにいつの間にか…いや、元々今週はブライダルの事を話す週間じゃなかったっけ。逸れた話をそこまで戻す必要はないか。兎も角、無事に式が終わりますように。(祈&願)