無意識日記々

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楽観論

この国では失われた20年とか停滞とかいわれてずっと閉塞感が漂っているらしいが。正直庶民レベルでそんな事を感じる事は少ない。デフレだ不況だといわれても、失業率と自殺者数の増加は真に深刻だとは思うが、全体としては見事な発展を遂げた20年だと思う。

例えば音楽だけでみても、CDシングルが普及しCDレンタルが増加、ポータブルCDプレイヤーやMDプレイヤーの登場で音楽を持ち運ぶのは格段に楽になった、と思ったら家庭用PCの普及で家に居ながらCDを制作できるようになった。更に衝撃的だったのはiPodをはじめとした携帯音楽プレイヤーの登場だ。掌の上に数万曲が収まっている。利便性ここに極まれり。近所の本屋で遂にCDレンタルがはじまり喜び勇んで自転車を走らせてた小学生の頃の自分にみせてあげたい。きっと目を丸くして驚くことだろう。

インターネットを中心としたPCの普及と進化は凄まじく、世界中の人々と即座に連絡がとれ、地球の裏側でのコンサートやスポーツの試合を家に居ながらにして見れる。2年に1回の世界選手権の時のTV放送でしか見られなかった世界トップレベルの試合が、今は毎週末に試合の途中で寝てしまうくらいたくさん生中継されている。小さい頃の私が居眠りをしている私をみたら「もったいない!起きさらせくそがきゃあ!」と激怒するだろう。本当に贅沢になったものである。

しかし、それだけ技術が発展して便利になったのに心が満たされないのは何故なのだろう…なんて風にメディアなら不安や閉塞感を煽りたてるのだろうが、私はそんな風に思わない。いい時代になったものだ。技術といったら利便性の話か、となるが技術の発展を人間に適用するわざ―医術の進歩についてはもう素晴らしいの一言に尽きる。20年前なら罹患したら死ぬしかないと思われていたAIDSも今や「不治の病ではない」とまで言われるようになった。まだまだ戦いは長いだろうが、そういう"成果"に"正価"を与えずそれが今の常識なのだから、と嘯いていれば、そりゃ夢も希望も、幸せの実感もなくなっていくだろう。本当にもったいない。あ、今のは小さい頃の私じゃなくて今の私の呟きね。

思うに、この20年ダメになっていったのはTVや新聞雑誌の、特に情報流通に関わるメディアなのではないか。単純に、娯楽が多様化していく中で制作費が削られ部数が落ち、という事が起き彼らが先行き不安を感じ閉塞感を漂わせてきたことがこの20年の正体な気がしてならない。特にこの国では。

といっても、それが勘違いや幻だと言っている訳ではない。先程触れた通り、失業者も自殺者も増えている。実害はくっきり現れている。それは、この20年の発展を活かせないばかりか敷衍を阻害するような構造がどこかにあるのだろう。適切に発展した技術の恩恵を、皆に浴びせる構造にまだまだ欠陥があるのだろう。

今回は敢えてヒカルと話は結び付けない。ヒカルはこのことをどう感じているのだろうか、と強く思ったから書いた。ヒカルが戻ってきた時にこの国に希望はあるだろうか、と訊く前に、既に手の中にある夢や希望に僕らが気づいていないだけではないかと今のうちに自省しておきたい。

…私の"希望"は、宇多田光その人自身なので、光が元気で生きててくれりゃそれでいい。それがいい。それがいちばん、いい。特にそれについて悩んだことはない。あとは如何にそれをカタチにし続けるかだけだ。