無意識日記々

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日本語圏の揺らぎ

地上波テレビのアナログ停波まで1ヶ月を切った。大抵の世帯で切り替えは済んでいるだろうとはいえ、これで"テレビ離れ"とやらは更にやや加速されるだろう。

音楽番組、特に新曲をプロモーションする番組は非常に少なく、テレビ離れが増えてもそんなに影響はないのかもしれない。CMや連続ドラマは、しかし、なんだかんだいって影響力が強い。Flavor Of Lifeのとき思ったのは"花男2すげー"だった。曲はFoLに限らずいつだって素晴らしかったからね。

そういった準間接的なプロモーション手段の規模が小さくなるのは避けられそうもない。一方で、サッカー日本代表試合の高視聴率にみられるように、全国的な一体感を希求する空気はしっかりと流れている。別にみんなサッカーが特別好きな訳ではなく、野球でもペナントレースは地上波から消えていてもワールドベースボールクラシックは、多分次回も強いだろう。要は、"みんながみる"という空気を作れるか否かだ。

音楽でそれが出来るのは、アイドルを除けば今後は再集結サザンオールスターズくらいだろうか。宇多田ヒカルは、国民的歌手とかいう烙印を押されているような、もう頸木からは解放されているような、微妙な立場である。元々ファッションリーダー、トレンドリーダーとして市場を引っ張ってきた安室奈美恵が、過酷なツアー生活を経てアーティストとしてのステイタスを全国規模で勝ち得ていったのとは対照的では、ある。

そんなに手段は多くない。スポーツのように国別対抗がどうのという枠組みもないし、人々の生活に直結するようなこともない。もし何か"一体感"が生まれるとすれば、それは日本語への危機感だろうか。何しろ数百、いや千数百年、この土地に住む人は日本語を必ず話してきた訳で、それが壊れる事は今後数十年単位では有り得ないように思える。が、国という単位で大衆を動かすテレビとか新聞とかいうメディアがそのサイズを維持できなくなっていった時、日本語は地域格差と国際化という内外2つの圧力によってアイデンティティクライシスに陥る可能性が(ほんのちょびっとだけ)ある。今までだって世代間の日本語には乖離があり、それに基づいた歌詞は相互流通が難しかったが、そういった隔絶感に対してどの世代にも通じる日本語で歌う歌手には、もういちどくらい出番があるかもしれない。

私としては、遠慮なく英語で歌ってくれれば、それで構わないけれど。たとえ何歌ってるかよくわかんなくなってもね。