無意識日記々

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メディアミックス

メディアミックスという言葉がある。ひとつのコンテンツが複数の異なるメディア、媒体を通じて消費される事だ。最近では漫画という媒体で出発したONE PIECEがアニメ、ゲーム、フィギュア、映画、果てはレストランに至るまでその裾野を広げているのが著名だろうか。

このメディアミックス(最近はもう取り立ててこうは呼ばないのかもしれないけれど)、音楽は後から参加する事は多々あるとはいえ、その出発点になる事は極めて少ない。その昔TM NETWORKがアルバムを原作に小説を執筆したりする事があったが、こんな四半世紀前の例をつい出してきてしまう程に珍しい。他にもディズニーのファンタジアや手塚治虫の森の伝説なんかも趣旨は近いかもしれないが、同様の手法が以後頻発した訳でもない。音楽はメディアミックスの出発点になりにくいようだ。

理由は様々考えられるが、ひとつには歌の世界観は個々の心の中にあり、あまり具体的なカタチに展開して欲しくない、という事があるかもしれない。プロモーションビデオという手法は唯一といっていい音楽のメディアミックス手段のひとつだが、極端な話それは歌をテレビという媒体に載せる為の方便に過ぎない、とすらいえる。例えばPVから更に先に進む―PVが連続ドラマ化したり小説化されたりといった例は希有だろう。PVはやはり歌の付随という認識が強く、それ自体の作品性の立ち位置が確立されていない。どうにも、歌を離れて世界が広がる、というのは馴染まないようだ。

他には、歌が唄い手の存在に強く依拠しているという現実がある。その人がその歌を唄うことに価値があり、別に歌の描く世界観には強いこだわりがない、という風合いだ。この感覚は即ちライブ至上主義という事で、確かにひとは歌詞カードより公演の方にお金をより多く支払う。歌詞よりずっと歌手なのである。

宇多田ヒカルなら、歌を出発点にしたメディアミックスを高いレベルで完成させてくれるだろう。歌のイメージを素材とした小説も書けるだろうし、PVすら自分で監督できる。漫画を描く事すら、時間をかければ出来るかもしれない。ミュージカルなんかも有り得るだろう。通常のメディアミックスというのは大量の才能が流れ込んでくる事をさすのだが、しかし、光の場合は全部自分でやってしまう。なんだか背景まで自分で描き込んでしまう森薫("エマ"などで知られる漫画家)みたいな濃厚さを思い描いてしまうし、そうなると制作期間が縦に伸びて10年単位になってしまうかもしれないが、一生のうち一度位はそういったプロジェクトを立ち上げてみるのもいいかもしれない。尤も、信条が"いきあたりばったり"のまんまでは無理かもしれないが。