無意識日記々

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普遍性の罠

警察も検察も裁判官も弁護士もテレビ局も新聞社も出版社も皆々、単にインターネットが苦手なだけなんだよね。無能を悪意と取り違え、何も無い所に憎悪の応酬が生まれ出でる。会った事もない、伝聞と情報でしか構成されていない対象に対して罵詈雑言を投げつけるのは柳を幽霊だと怖がるのと同じかもしれない。

という事で、私にとって宇多田ヒカルは会った事もない、伝聞と情報でしか構成されていない対象なのだが果たして私はどうすればいいのやら。ほんの数m先に居た事も何度かはあるけれど別に会話を交わした訳じゃないしテレビでアップになったのを眺めているのと何ら変わらない。何やってんだろねこんな所で。

押し切ろうと思う。これだけ「宇多田ヒカル」という語句を繰り返している場所は他にない。柳を本当に幽霊に仕立てあげてみせようか。

まぁ柳は柳だな。いつまで経っても、どこまでいっても王様は裸のまま。新しい服は無い。無いものは、結局無い。


といういつもの前提を踏まえた上で歌詞の解釈という名の妄想構築作業に取り掛かろう。

『あなたが守った街のどこかで』。EVAで葛城ミサトが口にしたセリフがベースになっているとは思うが、光に実際にこの"あなた"が存在したケースは考えられないだろうか。例えば、被災地にボランティアに行った際知り合った誰かにとっての"あなた"であるとか、或いは学校で知り合った異国の人が徴兵され戦地に赴いたとか、そういった事もあるかもしれない。

一方で冒頭の『今年も早いねと残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』だけを切り取ってみれば、昔の恋人との思い出に浸っているだけとも取れる。『あなたなしで生きてる私を』というのも、曲調とこの後の歌詞の流れを踏まえると"あなた"の生死が気になるが、ここだけ取り出せば恋人と別れただけ、と云う事もできる。

何が言いたいかといえば、複数の異なる実体験を組み合わせる事で新しい架空の物語を醸成する事も出来るという話だ。つまり、幾ら歌詞の一言々々にリアリティと説得力があったとしても、全体を通して眺めた時にそのストーリーが実話に基づいているとは限らないという事だ。これは歌詞を創作する上で物凄く重要である。リアルだけを集めてファンタジーを創り上げる事も出来る。それは忘れてはいけない。

こんな事を書きたくなるのも、桜流しの描く物語が余りに普遍的だからだ。普遍性というのは非常に不可思議な概念で、それをベースにした現象や現実はありふれているのに、それそのものはなかなか姿を現さない。それについて語っている筈なのに、それはなかなか具体に直接表現されない。優れた作詞家は、その、誰もが知っているという感覚だけは持っているがそれがどういった何であるかはわからない何かにカタチを与える事が出来る。

桜流しは私にとってそういう曲だ。極論すれば、私は聴く前からこの曲の存在を知っていた。しかし、音と言葉というカタチを初めて与えたのは宇多田光だった。そして、私のみならずこの歌を"予め知っていた"と感じた人はどれ位居たであろうか。いつのまにか、桜流しのある世界に慣れてしまった。この歌のない世界なんてもう考えられない。もう戻れない。世界はこの曲の姿が現れた事でほんの少しばかり変質してしまった。しかし、この歌に宿す普遍性はずっと昔から変わらず"そこにあった"のだ。何が変わったのか。何が不変なのか。わからない。普遍性の罠はどこまでも恐ろしい。