無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

※このエントリはフィクションです

前回の話もそうだが、私は意識的に光に対して"手厳しい"事を言うように努めている。少しでも手綱を緩めてしまうと光に対してひたすらイエスマンになってしまいそうで。それはそれで自然でいいとも言えるんだけど、率直に言って毎度イエスしか言わないのはつまらない。今度はイエスと言うのかノーと言うのか、事前にはわからない方が面白い。特に、作曲に関してはHikaruはプロフェッショナルとして活動してる訳なので、かなりハードルを上げて評しているつもりだ。それでもこの日記が絶賛ばかりで埋まっているとすれば、それはヤツが凄すぎるだけなのだ、うん。


今回の照實さんによる訴訟ツイート、結局対象書籍はわからずじまいだ。取り敢えず、彼が名前を引用して発言したのが「流星ひとつ」のみなので、対象書籍はこれであろうという推測に基づいて論を展開しているが、この仮定が崩れる可能性もある(即ちその時は私の喋ってる事全部おじゃん)ケースも有り得る、という点を頭の片隅に置いて読み進めていって欲しい。

この話はかなり単純ではないので、敢えて話を単純化すると、何を"成果"として状況を見るかで2つに大きく分かれる。

1.読者に藤圭子の実像を伝える。(30年前の)
2.宇多田ヒカルに読んでもらう。

1については、前に述べたように私も異論はない。あれだけ彼女に長時間インタビューをしたという事実だけで十分偉業だ。

問題は2の方で、これによってヒカルがどんな反応をするか/したか、その推測で話が別れる。

よい結果を伴った、即ち、「昔の母の事を知れてよかった」という反応だったなら、万々歳だろう。もう何も問題はない。

しかし、ここに私は疑義を挟みたい。であるなら、何を照實さんはあそこまで怒っているのか。その点が説明出来ない。勿論、彼の私怨というセンもあったのだが、それだとヒカルは訴訟に同意したりなんかしないだろう。親子とはいえ分別のついた大人である。それ位は窘められるだろう。

仮に、2についてのヒカルの反応が「悪い方」だったと仮定すれば、話の筋が通ってゆく。照實さんが読んだヒカルの動揺ぶりをみて憤慨し、「厚かましくも」とツイートし、訴訟の話まで立ち上がった、とすれば「絶対に許せない」との反応も納得出来る。ただでさえまだ母を亡くして日が浅く、精神が不安定になる要素を内包したままの彼女に悪影響を与えるような書籍との邂逅があったら、あんな感じの反応になるのもむべなるかな。

ただ、これも先日書いた通り、その仮定に沿えば憤りはもっともだとしても、訴訟を起こす心境は理解できても訴訟内容が十分に説得的とはならないだろう。ここも話をややこしくしている点だ。「勝ち負けではなくattitudeの問題」と照實さんが言ったのも、この点を指していると考えれば理解しやすい。ヒカルを傷つけた人間を許す訳にはいかない、何かそれを態度で示したい、という父親の憤慨である。


さて、ここで立ち止まってみよう。ヒカルの身になって考える。2の「いい方の反応」だったら、くどいようだが何の問題もない。沢木さんぐっちょぶ!である。

「悪い方」だった場合。しかし、それでも1の効果は疑いようがない。"世間"は、この本によって藤圭子さんを見直すだろう。少なくとも読者たちは、「こんなに素敵な人だったのか」と認識を改めるに違いない。"誤解される事の多い彼女"の誤解がとけるのだ、いいことじゃないか…

…とは、ならない。もし「悪い方」だった場合。それは新たな誤解でしかないのだ、宇多田家の父娘にとっては。何故なら、2人が彼女と過ごした時間は、それによって暗黒時代として否定されるからである。

ここの天秤だ。ヒカルは、ここで我慢すべきだろうか? 自分の見てきた母の姿を否定されてでも、"世間"が藤圭子を賞賛するのだからよしとしよう、と納得するべきなのか。Hikaruは自らの心に傷を負わせてでも、"世間"での母の評判と名誉の回復をよしとすべきなのか。



私の本音は最初っから決まっていて。んなもん生きてる光がいちばん大事に決まっとろうが。それについては、光と意見が食い違っても言わせて貰う。光の心がいちばん大事だ。世間の評判?そんなのは知らん。あんな本をこんな時期に世に出すべきではなかった。すぐにヒカルの目に止まってしまうのだから。時間を置いて、照實さんとじっくり相談した上で、ヒカルが読むべき時期を究極まで煮詰めこんだ上で、出版を決めるべきだった。そう思う。





…さて問題です。この場合の私は、光のイエスマンでしょうか、それともイエスマンではないのでしょうか? イエスかノーかでお答えください☆