無意識日記々

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不凋花と月の祈り

今年の邦楽ベストチューンはこのまま行けば断トツでLIV MOONの"アマラントスの翼"だな〜(なんて言える程邦楽聴けてないけど。代わりにアニメを沢山みてみた)、そいで洋楽ブライテストホープはMoon SafariとAmarantheの一騎打ちの予感。という訳で今夜は月とアマランサスの話だ。

アマランサスとは日本語で不凋花と書くらしい。語源のアマラントスに"花のしおれることがない"という意味があるそうな。amaranthineという形容詞はしぼまない、或いは赤紫色の、といった具合。藤色とはちょっと違うアマランサスの花の色である。

光のイメージする"花"は、この不凋花とは全く真逆であるかもしれない。例えばそれは、大賀ハスのように2000年の眠りから覚め、更に僅かな時間の間にしか咲かない、儚いイメージが強い。咲いても一瞬、その時間の殆どは暗闇の中にある。

暗闇に光を撃て。ナウシカのセリフ、「生命とは暗闇の中に瞬く光だ」を強烈に思い出す。空間的にも時間的にも、輝かしい何か、華やかな何かとは必ず大きな闇を背負う。光にとって光とは、見えるもの総てを明るくする太陽のイメージよりも、暗闇の中に道標のように輝く月のイメージなのだ。

人が不死や不老長寿を求める物語は古今東西普く存在する。それだけ普遍的なテーマであり、人は死を恐れ、生を欲する。自らを、見える世界総てを照らし出す光の中に投じてしまいたいと願うのだ。

恐らく同じ感情を持ちながら、Everybody feels the same、全く異なる永遠を求める人の姿もある。それが転生の世界観だ。不老不死とは真逆に、こちらは何度でも死ぬ。寧ろ、死んでいる状態が普通に基本としてあって、たまに生まれて生きる。不老不死の願いと根源は同じながら、死ぬまいと願い太陽と青空に身を投じる者たちと、死の闇の中に一筋の生の光を見いだす輩とでは、方法論がまるで違う。宇多田光は、徹底して後者であり続けている。

死を身近に感じ、死を恐怖しない。何が怖いかといえばそれは青空であるという。老いて死んでゆく人間たちを嘲笑うかのように不変に普遍に存在し続ける青空、そして太陽。それに対して圧倒的な無力を感じながらも願い祈る心を胸に抱き続けるのであれば、それは転生の希望であろう。これは、宗教的原意識の最たる風景である。

光は光自身ではないのだろうか? それは闇だけが知っているのだろうな。