無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

味の向こう側

今季のアニメが軒並み最終回を迎えつつあるが、自分の観た中ではやはりなんだかんだ言って輪るピングドラムがいちばんポテンシャルがあると思う。

といってもこの作品は2クールで来季も続く訳だが、瞬間風速的なクォリティー、第1話や第9話でみせた密度の濃さは他のアニメには見られないものだった。

ピンドラの特徴は、どんなにシリアスな場面でもマスコットのペンギン達なコミカライゼーションによって軽く、Popに視聴者に提示する所。扱うテーマの粘り重い気質を如何にサラリと飲み込ませるか、オブラートというより胃腸に厳しい薬を飲むためにまず胃腸薬を処方する的な周到さをもって作品の白い洗練と軽快を担保しているように思う。

それでも第9話などは作者の趣味が全開になってしまい一部の視聴者は置いていかれた感が出た。こちらとしてはあの脳が軋むようなヒリヒリした感覚をこそ期待しているから満足こそすれ不満はなかったのだが、作家性を出し質を高めようとすればする程作品の内包する"痛み"は前面に滲み出てしまう。

宇多田ヒカルブランドの名の許にリリースされた楽曲群は、そういった作家性の苦労すら飛び越えているように思う。HEART STATIONなどは1時間弱を本当にサラリと聴き通せてしまう。声自体は暑苦しいが、サウンドのダイナミズムと流れるようなメロディーの奔流で翻弄する。気軽に買って気楽に楽しめる一枚である。

しかし、ひとたび作品の分析モードに入ると、特に歌詞の面では突然脳が軋み落ちる感覚が発生する。喋るように乗っている言葉の数々が、気の遠くなるような論理の積み重ねが隠されている事に気付いてゆく。一歩踏み込む事で、輪るピングドラム第9話のような強い作家性が簡単に手に入るのだ。

この、UtaDAの作品にもみられる多層性は、恐らくあらゆる表現者にとって憧れの的なのではないか。多くの創作者たちにとって作家性や芸術性と大衆性のバランスは相克でありジレンマでありトレードオフなのだが、こと宇多田ヒカルブランドに関してはその法則は成り立たない。いや、法則が崩れたというより法則の司る狭い世界を上回ったというべきか。

光の徹底した理詰めのアプローチは、作家性を突き詰めると突然密林が平野に拓けるように、強い大衆性の世界が広がる事をイメージさせる。麒麟の田村が、貧乏のあまりご飯を何十回も味わって噛み続けると長い無味の時間帯を経て急に強い味わいが口の中に広がる境地に到達する(一般の方がブログで検証していたが、本当にそういう現象が起こるらしい)エピソードを披露して、それを「味の向こう側」と名付けていたが、作詞作曲においても同じような事が、宇多田ヒカルに関しては起こっているらしい。或いは、極度に発達した科学技術は魔法と区別がつかない、というべきか。その境地に辿り着ける執念と勇気が揃っているからこその結果だろうが、それにしてめ不思議な世界があるものだ。