無意識日記々

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歌か泡沫か - utaka utakataka -

都会で電車に乗っているとたまに人身事故の車内放送がある。大抵は飛び込み自殺だ。こういう時に実際に口に出して「迷惑だ。誰も居ない所で死ねばいいのに。」と言う人が居る。言わなくてもそう思っている人は多いのだろう。

こちらとしてはそんなの「死ぬなよ」だけでいいと思うのだが、なぜか自殺という手段は「あり」なのだという認識があるらしく。その中で、世間に迷惑をかける死に方を選ぶよりは、例えば樹海にでも赴いて静かに死ねばいいのに、みたいな事を言う訳だ。

見知らぬ人が一人死ぬという意味では他殺だろうが自殺だろうがその点では同じな筈なのだが、これが駅のホームから他人を突き落として殺した場合は様相が変わる。そうなった際は自殺と同じように人身事故で電車が止まるのだがこの時に「どうせ殺すなら俺たちに迷惑をかけずに殺してくれないかなぁ?」などと発言したらかなり危ない人間だと認定されるだろう。先程の「どうせ自殺するなら樹海で静かに死んでくれないかな?」とは多分周りの反応も大違いだ。この差よ。

確かに、他殺の場合は自殺と違い「殺す奴」がまだ生きていてそれが怖いというのもあるのだが、それ以前にやはり自殺という手段は個人が勝手にとる分には容認される、という文化がこの国にはあるように感じる。実際、国際比較でも日本は自殺の多い国として知られているしな。

2013年の夏の話を蒸し返す気は余りないのだが、『真夏の通り雨』で歌われている『自由になる自由がある 立ち尽くす 見送り人の影』の一節を(2016年に)初めて聴いた時は「ここまで踏み込むか」と恐れ慄いたのをよく覚えている。生きている時に心を患い苦悩に苛まれ続けた母が自ら選ぶ事で漸くその苦しみと痛みから解放されたのだと、彼女の選択がそこに存在したのだと、ヒカルが言い切る一節。斯くも生きるとは不自由なのか。

ヒカルがここで、死を選ぶ事を『自由になる自由』と表現したのは、ある意味で究極的な自由への忌避なのだとも言える。『テイク5』で自らに生きたいという意志を再発見したヒカルにとって、自由を重ねることの先には死が待っているということなのだ。だから縛られたい、囚われたい、そう願う。それが生きたいという意志の表明となるのだろう。

ここまで踏み込まれてしまうとぐうの音もでない。私からすると、死に追い込まれるのは究極の視野狭窄であって、あらゆる自由な発想や気づきから隔絶されてしまって、生きながらに永遠の闇に閉じ込められてしまった状態にあるように思える。発想とは閃きであり、閃きとは輝く光だ。光そのものであるヒカルに自由こそ死だと言われると、貴方に見出す閃きの輝きは一体何なのかと問いたくなってくる。泡沫のように、泡が飛沫となって消えていくように、それらはただ仮初の夢に過ぎないのかと。なんか、その割に私の今まで書いた字数ってかなり多くて読み通すにはすんごい時間が掛かると思うんですけどどうなんでしょうねそこのところは。このひつこさが夢だったらなんかすんごいグダグダな気がするんですが。