無意識日記々

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遠望

これだけ甘い甘い言ってるのに"甘いワナ〜Paint it, Black"が出てこないのはなぜなんだぜ。いやあの歌の歌詞今回のテーマと殆ど関係ないから(と少なくとも今の私は思っている)。サンジの左目並にあっさりスルーしながら話を続けようか。

漸く嵐の女神で自分自身が甘える事を許した光。いやThis Is Loveで甘えてなんぼてゆってたやないかい、とツッコミを入れたくなる所だが(主に私が)、今回は、本当に甘えてみたい人、甘えてみたい事柄に辿り着いたという感慨が強い。実際に甘えてみれた、という事だ。

とはいえ、こちらの目と耳からすると、ここまで切実な積年の重い想いを突き付けられては、流石にこれを"甘えている"と見做す事は出来ない。そういう意味においては、光はまだまだ甘え下手である。

前回書いたように、誰にも何にも甘えない姿勢が全方位型の高品質な音楽性をもたらしたとすれば、つまりもし光が某かに甘えを見せ始めるとするとそのポピュラリティが減じてしまうのでは、つまり、どこからか付け入る隙を与えてしまうのでは、という危惧が生まれそうではある。

ここは、確かに難しい。勿論、今までのシングル曲だって総てが大ヒットという訳ではなかった(基本的にほぼ総てTop5入りしとるけども)。例えばPassionはかなり少ない売上だった、が、ネットで様々な評をみる限り、この曲は恐ろしく評価が高い。ゲームとの相性のよさに由来する所も大きいのだろうが、なかなかPassionを揶揄する雰囲気は出しづらくなっている。

ヒカルの場合、このように、売上が低くても他のステイタスでカバーできる仕組みになっている。デビュー当時はその全方位性をひとつの楽曲(ありていにいえばFirst Love)が担っていたが、今に至る頃には楽曲ごとに全方位の役割分担が出来ているかのようだ。即ち、全楽曲によって描かれるパースペクティヴが光の"八方美人ぶり"を担保しているのだ。スケールが大きくなるはずである。

となれば、この嵐の女神という曲は、このパースペクティヴの中で、一体どのような役割を果たすのであろうか。

思うに、この曲、ファン以外にはあまり評価されていないのではないか。光のパーソナリティに気をかけない人にとっては、SC2の2枚目の序曲程度にしか捉えられていない気がする。恐らく、何らかの社会的な評価、歌がうまいとかメロディーが美しいとか歌詞が感動的だとか、そういう意見はファン以外からは出てこない気がする。

つまり、嵐の女神は八方美人のどの方位にも手をのばしていない、付け入る隙だらけの、いや、曲自体がつけいる隙そのものといっていい。無防備極まりない宇多田光の姿がこれ以上ない青空のもとに曝された楽曲。全楽曲のパースペクティヴの中でまるで風の吹かない場所。台風の目、中心にこの歌は位置する。確かに、歌入れの時に足が震える筈である。自分を護るものを総て脱ぎ捨て、あの忌々しかった筈の青空を大きく受け入れたのだから。



…あれ、まだ続くのか?(知らんがな)