無意識日記々

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太古から続く営みと太鼓による音

桜流しサウンドの特徴のひとつに、徹底した低音の強調がある。これだけベースラインが強調された曲はそれこそ甘いワナ以来じゃないか。グランドピアノもどんどん左手が左に伸びてゆく。ベースレスで低音をピアノに委ねたStay Goldよりももっと低く沈み込んでいく。ストリングスも、殆どがチェロ〜コントラバスの音域だ。これだけの楽器陣で低音域は、それはそれは幅広く奥深い。

その中でもやりすぎとすら思えるのがドラムサウンドだ。驚く程に、シンバルが鳴らない。ドラムによる高音域に於いて各種リズムキープの為のハイハット類(鍔の広い帽子みたいな奴ね)が重要になってくるが、殆ど聞こえない。クラッシュシンバル("パシャーン!")もところどころ炸裂しているが、これもまた音が小さい。その上スネアドラム(中太鼓)のチューニングも低音域を効かせて、更にタム(小太鼓)も、殆どがバスドラム(大太鼓)に近い低さの音域で鳴っている。おどろおどろしいとすら言える程に低音尽くしである。

しかし、だからこそピアノの旋律が映える。楽曲中唯一と言いたくなるほど、冒頭からのピアノはか細く高音域に佇み続ける。更にその旋律は左右に広がらず、基本的に瞬間々々一ヶ所で鳴り続けている為、儚さと力強さの両方が強調される。それは、万物が流転する中何も出来ずにその場所に立ち続けてきた「遣る瀬無き木立」のありようを思わせる。自らの無力に嘆くには、生き残っていなければならないのだ。残された者は遺された物を携えてこれからも生きていく。それはか細いが、どこまでも途切れる事はない。楽曲中ピアノの響きが失われる事がないのは、儚く去ってゆく美しいもの達を見送り続けてきた"木立"の方からの視点である。無力に嘆くには、生き残るだけの、そこから更に生きていけるだけの強さがなければならない。ありとあらゆる悲劇と絶望が多様な低音によって表現されているとすれば、この、細く儚くも絶える事のない一筋のピアノの高音は、その低音に翻弄されながらも力強く生きていく生命の流れなのかもしれない。それは咲き誇り散り落ち土に
還りまた花を咲かせる繰り返しだ。輪廻転生と永遠の世界観。サウンドに耳を傾けるだけでも、その哲学は我々の心象風景に迫ってくるのだ。