無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

敢えて踏まない、踏襲しない。

桜流しには音韻技術の駆使が、常なヒカルと較べて殆ど出てこない。数百字の音韻構造に数万字を費やす(それでもまだ足りない)のがヒカルの曲なのだが、この曲に関してはそれが当てはまらないのである。

これは、曲調による。リズミカルで高揚感がある楽曲であるなら、押韻は効果的である。韻が生むのはリズムであるから。桜流しはリズムで押す側面が殆どみられない。ベースもドラムも、リズムセクションと呼ばれる楽器陣は重厚さの演出に回っている。

韻を踏んでいると、どうしても楽しくなってしまう。詞の内容に関わらず。いや、そもそも歌詞の音韻に注目させる事自体、詞の内容から離す行為であるから、詞の意味内容に耳を傾けて貰おうというのであれば、音韻は極力外すか、あっても控えめでなくてはならない。

桜流しに音韻構造が殆どみられないのは、それだけ歌詞の内容が大切だからである。意味が伝わればいい。早い段階でHPに英語訳を掲載した理由と同じである。

同じように"リズムを抜いた"楽曲として思い出されるのがFINAL DISTANCEだ。ストリングスとピアノとコーラスワークの三位一体、と毎度言っているが、元曲のDISTANCEが弾けるようにPopで切ない楽曲であるのに対し、非常に厳かで充足した楽曲になっているが、基本的に歌詞はDISTANCEと同じものなので、その名残が幾らか残っていたが、桜流しにはそういった"枷"はないので、かなり大胆である。

前も触れたように、『どんなに怖くたって目を逸らさないよ』の一節は完全に音韻どころかメロディーからも外れている。しかし、こう言いたかった。逆説的だが、メロディーからもリズムからも外れる事で歌詞のメッセージ性は増す。そこの要点がメロディーでもリズムでもない事が示唆されるからだ。

特に、楽曲の前半部分は歌詞の語る物語に注視するべく、メロディーが一定しない。ここが後半と対照的で、且つこの曲がとっつきにくい理由でもある。Popソングのつもりで軽く聞き流している人にとってはこの部分は何か遠くの方でもごもご言っていて地味、という印象を与えるだけだろう。しかし、言葉に耳を傾ける人にはありありと情景が浮かんでくる。ここで差が出る。

今回映像作品に注力したのも、そうやって聞き流してもらうより、楽曲と面と向かって対峙してくれた方が真意が伝わるからだ。視界を占有する事で声も届きやすくなる。どこまでもしっかりプロデュースされた作品、及び作品形態である。