無意識日記々

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「はな」

桜流しの音韻については現時点で既に幾つも書き漏らしてきたが、あろうことかこの曲で最も大切な音韻についてまだ書いていなかった。どれ位大切かといえば、例えば宇多田ヒカルを紹介する時に「女性である」「歌手・音楽家である」と言い忘れてしまった、という位に大事な事だ。いやはや、面目ない。


この曲、タイトルが「桜流し」なのに、歌詞に一切桜が出て来ない事に引っかかった人は居ないだろうか。いわれてみれば、という程度かな。兎も角、この歌に「さくら」という言葉は出て来ない。

代わりに登場するのは「はな」である。『ひらいたばかりのはながちるのを』、だ。

何故「さくら」でなく「はな」なのか。

これに、歌詞の意味論上での理由をつけられる、という考え方もあるかもしれない。曰く、「さくらと言い切ってしまうとどうしても特定の情景が思い浮かんでしまい、個々の聴き手のイマジネーションが阻害される。この場合、より一般的な"花"の方が個々が思い入れを思いのままに託す事ができる。だから"花"の方がよい」と。

しかし、それならばタイトルで「桜流し」と言い切ってしまってる事実と相容れない。桜流しという歌ですよと聴かされた歌の中に"花"が出てくりゃそりゃ大抵の人は桜を思い浮かべる。確かに"花"で全然構わないのだが、"桜"でもそれはそれでよかった筈である。

しかし、この歌では必ず"はな"でなければならなかった。それは、ただ歌詞の内容からそうすべきだというだけではない、音韻構造上必須の要請から来ている。

「あなた」と韻を踏ませる為だ。

「あなた」と、「はな」。これがこの歌の最大のテーマにして最も大切大事な音韻である。

「あなた/A-Na-Ta」と、「はな/Ha-Na」。

シンプルに「あ-あ」の母音の音韻であるが、この2つの言葉は必ず韻を踏ませなければならなかった。踏み込んでいえば、同じYouでも「きみ」などではダメなのである。

なぜなら、この歌の主人公は散っていく「はな」に「あなた」を重ね合わせて見ているから。「あなた」と「はな」は、同じものなのだ。

これは、歌詞にある通りだ。いまのわたしは「あなたなし」。「あなた」は、「はながちる」ように、どこかにいってしまった。「きれいだった」のは「あなた」だけではない、もちろん「はな」もである。まちがいないと、思いませんか。

ここが、宇多田ヒカルの作詞術の際立って巧みな部分だ。ただ意味上で「あなた」と「はな」を重ね合わせるだけでなく、音韻上でも「あなた」と「はな」を重ね合わせる。意味としての言葉と、音としての言葉、そのどちらの側面からも同じ"「あなた」と「はな」を重ね合わせる"役割を託してしまう。これぞ詞の、歌の醍醐味であろう。


これが意識的な作法である事は、この前指摘した"NT"の(循環や逆転を伴う)音韻構造をみればわかる。「はやい"ねと"」「みれ"たな"ら」「あ"なたな"し」そして「i(n t)he e(nd)」。なぜこんな風にそこ彼処にNTの音を配するかといえば、この歌の主人公が"あなた"の面影を至る所に探しているからである。曲の後半に明らかになるように、主人公は歳月を経てまた散る花をみて「あなた」の事を思い出す。

ヒカルは、その、あらよる所に「あなた」の面影を見いだす様子を、「あなた/A-Na-Ta」の音の面影を歌の至る所に配する事で表現しているのだ。聴き手も、NTの音が歌の中で出てくる度に、「あなた」の音の残像が意識の端の方でちらつく。その効果は無意識のうちに聴き手の中に染み込んでゆく。巧みである。


故に、「あなた」の残像がそのまま重なるように、「はな」は「はな」でなくてはならない。これが、2012年最高の名曲"桜流し"の真骨頂である。