無意識日記々

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天然啓語の字数限界迄記した日記

先日の誕生日オフ会の自己紹介で、各自好きなアルバムを言う流れになったので自分も言う事になったのだが、そこで口をついて出たのが「Single Collection Vol.2」の名前だったのが、自分でも意外だった。勿論というか当然というか、他にそう答える人は居てはらなかった。

その時に、「Disc2の新曲(当時)のよさは勿論の事、Disc1も含めて」なんて風に付け加えたのだが、今日Disc2から改めて聴いてみて、とても単純な事に気がついた。もしかしたら、宇多田ヒカルってアルバム・アーティストじゃなかったのかもしれない、と。

アルバム・アーティストという言い方は、つまり、シングルよりアルバムの方が売れるアーティストの事だ。シングルは売れるがアルバムは売れない、という人は曲単位では好かれているけど一個人(一グループ)のアーティストとしては特に好かれていない、みたいなケースだ。泳げたいやきくんはバカ売れしたが、子門真人のアルバムが大ヒットしたかといえば、総体的相対的には否だろう。逆に、ユーミンなんかは80年代シングルの売上ではアイドル勢の後塵を拝していたがアルバム売上は別格の強さで年間1位を連続で獲得していた。個々の楽曲も人気があったが、それ以上に「ユーミン」というブランドが強かった。アーティストとしての世界観(商業観・商業勘)が何よりのアピール・ポイントだった。「普通にサザンとかユーミンとか聴きますね」なんていう言い回しに否応無くハマっていたのだ。

宇多田ヒカルも、実際にこの系譜だった。Automaticは団子3兄弟にかなわなかった。しかし、アルバム「First Love」が鯛焼きも団子も蹴散らしたのだ。日本人は花より団子かと思われていたのに恋の歌が歴代1位に輝いた。アーティストパワーの勝利だった。それが、8年後には「花より男子2」なるドラマの歌を唄って同規模の数字を叩き出したのは今から考えると面白いもんだなと思うがそれはさておき。

兎に角、ヒカルはシングルよりアルバムが売れた。だからアルバム・アーティストとして認知されてきた。個々の楽曲も人気は凄まじかったが、年間1位をとったのは、12年前の今日(もう昨日か)発売された「Can You Keep A Secret?」一曲で、これもドラマの大人気の助力が大きかった。しかしアルバムの方は更にそれより桁違いで、デビューから4作連続で年間1位だった。ぶっちぎりだった。

それもこれも、宇多田ヒカルという名が極端にブランド化したからだ。宇多田買っときゃ間違いない、皆にそう思われていた。そして、事実そうだったのだ。宇多田を買っておけば実際に間違いなかったのだ。ここまで形骸化や陳腐化と無縁だったブランドも珍しい。皆無と言っていい。個々の楽曲の魅力を、宇多田ヒカルの魅力が上回っていたのだ。それが虚像のであっても、実像のであっても。

しかし、音楽家宇多田ヒカルの信念は別の所にあった。実際にそう口にした記憶はないが(近い事は言ってはいたかな)、彼女は「自分の名前が消えても曲の名前は生き残ってほしい」と思い続けてきた節がある。それが初めて実現した、つまり、自分の名前という"ブランド"より曲の名前の方が"有名"になった曲が、デビュー以来初めて生まれた、それが「ぼくはくま」だったんだと思う。実際、「この歌って宇多田だったの!?」というコメントがWeb上で幾度となく目撃されている。今後も童謡として引き続き親しまれていけば、そんなケースは増えていくだろう。ここがターニング・ポイントだった事は明らかだ。

楽曲主義。これがひとつ。そしてもうひとつ。楽曲主義。あれ、同じ?

いや、もう1つの意味で、だ。もう1つ、強調すべき点があるのだ。ヒカルは、アルバムという"単位"にそれほどこだわりがなかったのではないか。そこだ。

トータルアルバムとしての完成度といえば、「HEART STATION」の強靱さを否定するのは難しい。楽曲のよさは勿論だが、何よりその曲順と繋ぎの素晴らしさ。Beautiful World からFlavor Of Lifeの贅沢さ、テイク5からぼくはくまへの衝撃的な展開と、何から何まで神懸かっていた。この作品はトータルとして通して聴いてこそ感動はより大きいものとなる。その事実は現在も微塵も変わらない。

しかし、この曲順構成を手掛けたのはヒカルではなかった。当時のヒカルは楽曲制作で疲労困憊、それ以降の作業は三宅さん以下他のプロデューサーディレクター陣に委ねられた。あの曲順は、直接はヒカルの「作品」ではなかったのである。

それを、アーティストの世界観の強靱さによる遠隔操作と強制力だと言うのは容易い。しかし、だとしても自覚的とは言い難い。自我もまた必然の一部とはいえ。

つまり、宇多田ヒカルはブランド化するほど「間違いなく」毎回名曲を生み出してきてはいるが、本人には事前にそんな自覚は全くなく、常に全力で楽曲を作り続けてきただけでしかなかった。過去にどれだけ名曲を生み出してきていようが、また新しく曲を作る時にその過去に縋る事を全くしてこなかった。故に、毎度この日記で触れている「1曲1ジャンル且つそのジャンルの最初にして最高の傑作」を常に生み出してきたし、どの曲も全き新鮮であり続けた。過去の業績に(最終的には)全くとらわれない態度を生み出してこれたからこそ常に新曲が名曲だった。逆説的ともいえるがこれ以上の真実と真理もまたない。新しい生命は、新しい事への不安と恐怖を経なければ得られない。それに従事し続ける勇気と自信は、過去から確実に得ていたではあろうけれども。

そんな彼女にとって、そんな楽曲を12曲かそこら収録した「アルバム」という単位に、どれだけ意味があったか。そう考えると、Single Collectionもレギュラーのスタジオアルバムも、1曲々々を集めたという点では大して変わらない、いや、順逆時系列順に並べてあるだけ、Single Collectionの方がより「正直」であるとすら言える。確かに、既にリリースした音源を、新曲5曲と"抱き合わせ"で買わせるというのはフェアではなかったかもしれないが、それはこちらの都合でもある。配信で買う人には関係のない話だったし、初めて宇多田ヒカルのアルバムを買う人にはもっと関係なかった。いやまぁ、購買層にそれ程変化があったとは思えないので、若干机上の空論ではあるのだけれど。

そもそも、歴史を紐解いてみると"アルバム"という存在自体「"抱き合わせ"の権化」だったのだ。シングルヒットを出したアーティストの名前で、既にシングル盤としてリリースしたそのヒット曲と他の幾つかの楽曲を抱き合わせて収録してリリースしたものがLP盤、"アルバム"だった。確かに、LP盤は一曲あたりの値段と較べればシングル盤より割安だったから、シングル盤では高くて買う気になれなかった層もそのお得感に誘われてアルバムを購入し始めた。

しかし、冷静に考えてみると、これはレコード会社としては"美味しい"商売であった。シングルヒットした楽曲は同じものを収録する訳だから新しく制作費がかかるわけではないし、アルバムのみ収録曲に関しては、それは一曲あたりの値段を下げて"全体としての割安感"を出す為のものだから別にアルバムの売りとして前面に押し出す必要はなく、ただ単に収録時間を"埋め合わせる"為に作ればよかったのだから手間暇も予算もシングルヒット曲ほどかけなくてよい。気がついてみれば、シングル盤よりずっと収益率は高かった筈だ。

こういった状況に"一石を投じた"のが、誰よりもシングル盤を売りアルバムも売っていたThe Beatlesだった。彼らはアルバム一枚を一つの世界観の基に纏め上げ、楽曲一つ々々をアルバムという一巾の絵画を構成するピースとみなし"トータル・コンセプト・アルバム"という手法を世界に知らしめた。ここから、アルバムという"作品"は新たな生命を与えられる事になったのだ。

しかし、宇多田ヒカルはどうだったか。そんな風にアルバムを構成した事は一度もない。確かに、どのアルバムにもそのアルバムなりの個性はあるが、それはヒカルが楽曲をストックする事なく(アイデア単位のストックは山ほどある)、完成する度にリリースしてきた為、「その時期の宇多田ヒカル」の個性が楽曲に反映されていったというだけだ。つまり、アルバム一枚は自動的に「いついつからいついつまでの宇多田ヒカル」を切り取ったものとなっていた。アルバム一枚々々に個性が出るのもむべなるかな。その時期毎のヒカルがそのまま封じ込められていたのだから。

裏を返せば、結局レギュラーのスタジオアルバムとシングル・コレクションの間に本質的な違いはない。違いがあるとすれば、収録曲がそれ以前にアルバムという体裁の中で発売された事があるかどうか、それだけだ。それは、先程触れたようにその"以前のアルバム"を聴き手が既に購入していたかどうかにしか影響されない。アルバムとしての音楽的性質に何ら変化を与えない。これも先程述べたように、素直に時系列順で楽曲を並べてあるだけシングル・コレクションの方が正確な情報を搭載しているとすらいえる。それも、楽曲一曲々々が独立している世界観の中では本質的な違いはないのだが。

また、シングル・コレクションの利点として、聴き手としての一曲々々への思い入れが、より深くより均質になる、という点がある。というのも、シングル曲というのは数ヶ月に一度、一曲のみリリースされるのが基本であり、コアなファンはその一曲に集中して夢中になる。隅から隅まで聴き尽くす。今の私と桜流しの関係がまさにそうだ。だから、シングル曲一曲々々に対しては、好みの差はあるかもしれないとはいえ、その差も含めて思い入れの度合いが均質化してゆく。

しかし、アルバムのみ収録曲は違う。ある日突然、4曲も5曲も手渡されていっぺんに消化しろという。いつも一曲々々に数ヶ月身を捧げてきた身としては何とも御無体だ。いきおい、どれだけその曲が好きでも聴き込みの密度はその4、5曲に分散してしまう。どうしても、楽曲の出来や好み・方向性に関わり無く、アルバムのみ収録曲に対する思い出の中の思い入れという点では、シングルリリース曲と比較すると相対的に薄くなってしまう。

シングル・コレクションだと、そういった悩みから解き放たれる。さっきもSingle Collection Vol.2をDisc1から聴きながら感じていた事だが、どの曲にも同じように思い出がある。思い入れがある。その点に関しては、これらの楽曲の殆ど総てについてこの無意識日記に記してきた私が、誰よりも強く強調する事が出来る。そして、その思い出と思い入れが、総ての曲で途切れない。どの曲にもタップリ時間を費やした。次の曲がやってくるまで、ひたすらその曲と向き合った。その事実が、私に、今迄のアルバムの中で「Single Collection Vol.2」がいちばん好きだと言わしめたのだ。

そう考えると、誠に個人的な願望で恐縮だが、今後のヒカルには「アルバムのみ収録曲」を作って欲しくはない、いや、つまり、総ての楽曲を等しくシングル・リリースして欲しいと、私は思ってしまう。ヒカルは、アルバムのみ収録曲まで、命を削って最高の曲に仕上げてしまう。確かに、"シングル・ヒット向け"でない楽曲もある。嵐の女神なんかはそうかもしれない。でも、それでも、ファンとしては1曲々々を味わい尽くして次の曲を待ちたい。いや、尽くせなくてもいいから、次の曲も大体同じ位の尽くせなさ加減で巡り会い付き合いたいと思う。全き私の我が儘だが、こんな日記をのべ8年以上も書いていると、そんな風に思うようになるのだ。

となると、私が次にヒカルに期待する"アルバム"は、「Single Collection Vol.3」だ。つまり、それは次の「レギュラー・オリジナル・アルバム」であり、また、総ての桜流し以降のシングル曲が収録されていて、且つそのシングル曲のみが収録されている作品だ。現実には契約上難しいだろうが、私は願いを口にしたいだけだ。だから、こう書いた。もし従来の意味での"アルバム"を発表するなら、その時は"トータル・コンセプト・アルバム"として、"1つの"作品としてリリースして欲しい。そうでなければ、シングルコレクションで必要にして十分、そしてHappyである。はてさて、未来はどうなります事やら。けいご