無意識日記々

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ステレオと"3D"の本質的な違い

ぶったぎったところをフォローしとくか。また完全に横道だけど。

音のステレオも映像の"3D"も"疑似"である事に変わりはない。ステレオは左右のスピーカーから等距離の位置に居ないと音のバランスは狂ってしまうし、"3D"も専用眼鏡が必要だったり真正面から鑑賞せねばならなかったりと制約が多い。そういった"制限下での効果"という点では同じである。

しかし、実際にその制限を満たした地点で鑑賞した時にそれぞれで感じられる"リアリティ"は随分違う。

ステレオの場合、上手く嵌ればまさに演奏会場に居る時とほぼ同じ音像が得られる。部屋に居ながらにして。しかし、"3D"ではそうはならない。理由は2つある。

まず、画面の大きさが有限である事だ。画面の枠から外は見えない。"3D"という奥行きの話をしていたのに詐欺みたいな話だが、そここそが視覚が聴覚と異なる点である。聴覚には方向性がない。基本的に2つの耳で360°全方位の音を捉えるからだ。後ろを向けば左右は逆転するが音自体は相変わらず聞こえるし何より"後ろを向いた事"も人間側が自然に計算に入れて情報を処理する為鳴らす音を変える必要はない。

しかし映像作品は違う。小さな画面という枠を首も動かさずじっと見据えるしかない。銀幕の大画面なら隅と隅を見やる為に首を多少動かすかもしれないが。もし、後ろを向いてしまったら何も見えない。ここが音と完全に違うところだ。ステレオを聞いている時に部屋で後ろを向いた時に聞こえてくるのは演奏会場で後ろを向いた時に聞こえてくる音とほぼ同じだが、部屋で"3D"映像を見ている時に後ろを向いたら真っ暗だ。つまり、そこで"リアリティ"の質がまるで違ってくる。

それが映像作品というものの本質であり、2Dか"3D"かによらず襲いかかる視覚体験の"リアリティ"の課題である。そこでもう一つの理由の話になる。それは"カット割り"の存在である。

映像作品では、カット毎に"視点"が切り替わる。部屋で後ろを向いても何も見えない代わりにカメラの方が動いてくれるのだ。そして、それは視聴者の意志によらない。映像監督の見せたいカットを我々は見るしかない。地味だが、とても本質的な点である。視覚体験のこの自由度の低さが、"リアリティ"から物事を遠ざけている。

大体匂ってきたかと思うが、リアリティの追求においては、聴覚作品と視覚作品の鑑賞方法の本質的な差異が重要なのだ。次回、になるかどうかはわからないが、またの機会にこの話の続きをしよう。