無意識日記々

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天然?圭子?

Hikaruも好きだというチック・コリアの「Return To Forever」を聴く。相変わらず素晴らしい。歌詞もあるにはあるが、スキャットも含めると大半が器楽演奏で、要は基本的にインストアルバムである。音の割合的にね。

器楽演奏はある意味最も純粋な娯楽である。ただ音が鳴っている、何かが振動しているというだけで、そこには主義主張も思想信条も宗教も政治も何もない。いや作曲者によっては表題音楽として「ここのパートは小鳥の囀りを表しているんだ」と言い張ったりする人も在るかもしれないが、そんなものは聴き手の解釈次第だ。どうとでもなる。純粋に、意味もなく、音を楽しむ。これがいい。

逆にいえば、歌というのは純粋でないからよい、とも言える。私の知らない言語で歌われた歌は私にとってスキャットであり耳は器楽演奏を聴くそれに近くなる。しかし、日本語や一部の英語の歌は、どうしても歌詞が耳に入ってきてしまい、その歌詞の描く情景や主張や意味なんかを汲み取ってしまう。いろんなものにまみれた"歌"は、そうやっていろんなものと絡み合い、利用し、利用されていく。

今回もヒカルの歌の歌詞を通じていろんな事を言われた。いやはや、色んな解釈もあるものだなと思わされたが、もしこれ、ヒカルが器楽演奏専門家だったら一切こんな事はなかった筈だ。歌を歌うから、あれやこれやと言われ易いのである。

あれだけ上手いんだから歌って当たり前、というのもそうなのだが、それ以上に、Hikaruがそういう器楽演奏のような"純粋培養"よりも、いろんなものを引き摺って来る"歌"の方を選んだのは、自然な事とはいえHikaruらしいなと思う。Hikaruは、あまりピュアとか純粋とか言わない。代わりに言ったのが"Simple And Clean"だが、"カンタン、キレイ!"なこのタイトルはそこまで純粋に純粋の意味とはならない。単純で清潔というのは、簡素という事でもあるか。色々ゴタゴタと注釈をつける事が可能なヒカルのキメ細かな歌唱には、あまり純粋さは感じない。代わりに誠実さや思いやりを篤く感じる事が出来る。

一方で、藤圭子の歌は、何と言うのだろう、それと較べれば随分純粋なように思う。世間知らず、と言ってしまうとただの先入観だと思われてしまいそうだが、どこか排他的で、他を寄せ付けない、繊細で壊れ易く、脆さと隣り合わせの強さみたいなものを感じる。ヒカルの、いろんな事を考えた末に辿り着く歌唱とは、対局にあるような気がする。いや勿論喋り方をみれば彼女はHikaru同様頭の回転の早い人なので何も考えてないのとは違う。その気をどこに回すかが2人の間で随分違うなという事だ。

それが、都築DJの仰ってた「藤圭子は一色(ひといろ)の声しか出せない」理由のひとつなんだと思う。この人、どこまでも内向きだったんじゃないか。なので、誰の歌を歌っても、藤圭子がみたようにしか藤圭子は歌えない。その個性が図抜けて強烈で、尚且つ歌が抜群に上手かったもんだから、ピタッとハマってしまったのではないか。彼女の同時代人と。

そこでふと考える。もし彼女が「純子」の名のママでデビューしていたとしたら。何故「圭子」だったのだろう。純子さんは、名前の通りの人だった。ゆえに社会には馴染まなかったのかもしれないし、歌えたものだから様々な浮き世のよしなしごとを引き摺る事になったんだと思うんだけど、その時に名前が「純子」だったらどうなっていたか。何か、歴史が変わってしまっていたかもしれない感触がそこにはある。

Hikaruは、本名のママだ。出来れば結婚しても、するなら、婿をとってそのままの名前で居て欲しい。いや勝手にすればいいけどさ。言うだけ言ってみたんだ。