無意識日記々

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"ヘテロを止めてみては如何?"

先日話題になっていたワシントンポストのお悩み相談、確かに面白い。母が「息子がゲイなんだがどうやったら止めてもらえるか」と相談をもちかけた。そこで回答者(女性)はこう答える。「ではお母さま、あなたが自らの性的志向をお変えになってみては如何でしょうか。ヘテロをお止めになって、"ほら、性的志向なんて選択の問題でしかないのよ"と身をもって示すのです」と諭すこのやりとり。見事なものだ。

ここから後回答者は、「性的志向を否定するのはその人の全存在を否定するようなもので…」とお説教を始めるのだが、いやそれも興味深いんだけど、それ以上にこの冒頭の切り返しの鮮やかさである。性的志向(嗜好か寧ろ)の問題に限らず、このやりとりから得られる教訓は「視点を変えてみる」事が如何にダイナミックで大胆な出来事なのかという点だ。

つまり、母親はおそらく、「もし自分がそう言われたらどう感じるか」という視点がもてなかった。"何故もてなかったか"を分析するのも又大変興味深いだろうが、それもここではおくとして、本題に入ろう。"ぼくはくま"である。

いや、歌に限らない。HikaruとKuma Changのやりとりで見えてくるのは、くまちゃんから見たHikaruの姿である。つまり、くまちゃんを通して、Hikaruは、自分が外側からどい見えるかという視点を手に入れた…と言えるかどうか。ここがキーである。

つまり、どういうことかというと、メッセに登場するくまちゃんの台詞は、Hikaruが"耳にした"くまちゃんの発した言葉なのか、それとも、Hikaruがくまちゃんになって自らの言葉として発したものなのか、この2つの区別が非常に重要なのではないか。上記のワシントンポストのお悩み相談を読んで、私はその点に気が付いたのだ。そういえば今まで意識して区別してこなかったなと。

そこで思い出すのはギガントの存在だ。あれはまさしく、Hikaruがくまちゃんになって、くまちゃんの視点から世界を見る事を可能にした"装置"だった。くまちゃんのぬいぐるみを持っている人は世の中にたくさん居るだろうけれど、ギガントを持っているのは恐らく世界中で宇多田ヒカルただ1人だろう。(そりゃあね) この、大胆極まりない"視点の転換"の存在は、くまちゃんの言葉が、Hikaruがくまちゃんになってそこから世界をみて発せられているものだという気分を強くさせる。

であるならば、だ。Hikaruは、外側から自分を見る事が出来るのだろうか? 自分で自分を見ているのか? まるで幽体離脱だが、くまちゃんからみれば、Hikaruが「知らない人の顔」をしている事だってきっとある筈で、その寂しさと怒りの感情は、Hikaruが感じる事のできるものなのだろうか。知っている人間が知らないと言えるのか。難しい。こりゃ、難しい。しかし、ここから宇多田ヒカルの、多視点的歌詞世界観が生まれてくるのだとしたら、私は知らずにはいられない。知ってしまったらもう二度と戻れなくなる事を知っていようとも。