無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

逸れた横道が獣道だったパティーン

さっき書いた日記はつまらなかった、なんて反省の弁をこの間書いたが、無意識日記で書いて後悔しているエントリーといえば真っ先に思い浮かぶのがオートマと初恋の着うた無料ダウンロードサービスがあった時のヤツだ。今思い返しても顔と首と耳から火が出るんじゃないかという位恥ずかしい。本当なら削除したいところだが主義にもとるので一切しない。たぶん、誰にも迷惑かけてないだろアレ。そう願いたい。

本文と関係ない枕を書いてしまった。私小説家的なシンガーソングライターかPop Iconかという話だった。

アイドルをシステムとして捉え直したつんく秋元康は慧眼だった。そもそも、アイドルはシステムと親和性が高いのである。これが、スターとなるとまた違う。こちらは映画なんかと親和性が強い。銀幕に物語を投影する事で一世一代のスターをシステムに載せ流通させる事が出来る。手法は異なるが、手塚治虫の漫画における"スターシステム"とはその構造に則ったものだ。

話がややこしくなった。Hikaruの話に集中しよう。Hikaruなら、アイコンやアイドルやスターといったコンセプトに染まる事をよしとしないだろう。彼女は別に奉られたり担ぎ上げられたり見上げられたりしたいのではない。自らを偶像とするには違和感があるのだ。あと、大して目立ちたがり屋でもない。寂しがり屋ではあるけれど。

しかし、それによってジレンマが生じる。となると宇多田ヒカルとしての活動は、Hikaruの私的な部分を価値観として前面に押し出していかなければならなくなる。アイコンの役割を果たすとかスターを演じるとか、そういった事(長嶋茂雄みたいなな)から離れて、ごく自然体で自らの思う事を綴って歌を唄う…そうなってくると、どうしても聴き手はヒカルの生き方そのものに興味を持ち始める。彼女はああいう考え方や感じ方に基づいて、あんな風に生きている。それなら私は…という風に捉えるのがオーソドックスな反応である。女子アイドルの生き方を相対化する男子ファンはなかなか居ないし、スターに憧れて髪型や服装を真似るのは羨望の表現であり余程若くないと対等とはいえない。フレンドリーで目線が近く、でも音楽的才能に溢れているから何万人というファンが居て…こちらの具体的な例はaikoだろうか。一方スターといえば椎名林檎だろう。彼女に罵倒されたいドM野郎は男女問わず多い筈だ。時代を司るアイコンになったのは言うまでもなく浜崎
あゆみ、アイドルといえば鈴木亜美だろう。同期たちのキャラクターは実にわかりやすい。

宇多田ヒカルは、それら総てのハイブリッドともいえるし、それらのうちのどれでもない、とも言える。考えれば考える程、不可思議というか不可解というか、捉え切れない存在だ。ヒカルはヒカル、それでいいじゃないかと言ってしまえばそれまでだが、そんな事俺が言ったら無意識日記は最終回を迎えてしまう。そういう事じゃないんだ。


結局、手掛かりはクマしかない。くまのこ教の教えを思い出しながら、ヒカルがギガントを作り出し、その頭部を脱ぎ捨て、何だったら今の頭をはずしたらまたギガントで、というオルタネイト・インフィニット・ループド・マトリョーシカのコンセプトを披露した事について考える。基本の図式は色即是空空即是色(カラーカラカラカラカラカラー) だが、何しろ肉体と精神をもつ人間女子と腹が綿のぬいぐるみとのオルタネイト・スイッチングなので、要するにグロい。ヒカルが何故野生のクマにまで関心があるかわかった気がする。それがないと腹が綿のくまが出来る事はないからだ。何かを模倣して初めてそれは我々のよく知るあのぬいぐるみの役割を果たす。何も参照せず、いちから架空の生物をデザインして腹に綿を詰めたら、それは全く別のステップのものだ。いわば設計図というか、建築の前にプラモデルでミニチュア作ってみましたみたいな事になる。そうではなくて、まず先に肉体と精神の具象である生身のクマがあって、そこからぬいぐるみを作らないと意味がな
いのだ。立場的には、、、そうだな、一旦生き物として進化しておきながら寄生が基本となった為本来の生物としての機能を失ってしまったような存在…まるでVirus、なのかもしれない。くまのぬいぐるみは。確かに、グロテスクだな。



…今回も、あの時に負けず劣らず書いて後悔する日記を書いてしまった気がするが、結構面白かったのでよしとするか。こうやって日々のモチベーションを自ら上げていくのである。