無意識日記々

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音の出どころを目で見て確認する

毎度蒸し返す「ライヴでのバックコーラス」問題、この間は照實さんがツイートでこの点に関して触れていた。要はHikaru以外の声が混ざるとやっぱり違和感があると。ふむ。

そりゃあスタジオバージョンと比較すりゃ違うものになるだろうし、そもそもHikaruの声に合わせられる人材が見つかるかどうかも定かではないのだから、ライヴでテープ(じゃないだろうけど昔からの慣習でそう呼ばせて頂く)を使うのは良策だと思う。特にHikaruのライヴはマス相手で、最も大きなニーズは「スタジオバージョンを忠実に再現すること」。ライヴならではの違ったバージョンが聴いてみたい、とかは複数回参加している熱心なファンたちからの要望になるだろう。

で、その為に海外まで行く人間として進言させてうただくと、寧ろ、コーラスに限らずライヴでテープを使う事自体に違和感がある。なぜなら、ライヴ・コンサートとはこちらからすると"観に"行くものだからだ。

大抵の人は、Popsのコンサートに出掛ける時には「ミスチルを観に行く」という風に口にする。なかなか「ミスチルを聴きに行く」とはならない。クラシックであれば「今夜はバッハを聴きに出掛けるんだ」などと言う事もあるが、この場合ステージにバッハが出てくる訳では勿論なく、曲目の話をしているから"聴きに行く"という表現になる。ステージの上にたつ歌手や演奏者が目的ならば、"観に行く"というのが自然なのだ。

人間の本能として、「まず耳で音を捉えて、そちらの方に向き直り、目で見て存在を確認する」という行動様式がある。聴覚は予兆を察知するものだから、情報が耳からだけだと行動様式として物足りない。CDだけ聴いている時のこの不足感を、ライヴコンサートでは視認によって解消する事が出来る。ここが大きいのである。

つまり、ライヴ・コンサートにおいては、歌っている人や、演奏されている楽器などの「音の出どころ」を目で観る事が何よりも大きいのである。これをもってして人は「本物を見た・体験した」と堂々と胸を張って言える。ところがここでテープを使ってしまうと、音の出どころが舞台上のどこを見渡しても見当たらない。実際はマニピュレーターの人が操作しているのだろうが、そんなの遠くからじゃ、いや、どんなに近くてもわからない。これでは、ただ音が大きいだけで、家でCDを聴いているのと変わらないのだ。

バックコーラスを導入すれば、その違和感を拭い去る事が出来る。音の出どころを舞台上に確認する事が出来るから。しかし、そうすると前述の通りスタジオバージョンとの乖離が激しくなる。耳で聴く情報としては、確かに引っかかってしまう。視覚上の違和感と聴覚上の違和感。どちらをとるかは判断次第。そこら辺は父娘2人の選択に委ねるしかないだろうな、暫くの間は。