無意識日記々

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約束の名前

映像監督として、宇多田光名義にした理由は、昔本人が語っていた通りだが、それは、言い方を変えれば、宇多田ヒカルという存在をまるきり外側から見る目線が必要だった、光の中でヒカルでない部分に基づいて仕事をする必要があった、という事でもある。

ここらへんが"線引き"なのだろうと思うのだ。ヒカルのクレジットは、作詞作曲、メイン&バック・ヴォーカル、ピアノ&キーボード、編曲、と進んでプロデューサーにまで及んだ。そこまではヒカル名義で大丈夫だった、ともいえる。世の中には加山雄三弾厚作のように、歌手と作曲で名前を変える例もあるが(って古いの持ってくるねアンタ)、ヒカルは長らくそうはしてこなかった。しかし映像監督にまで来て漸く、異なった名義が登場した訳だ。将来文筆業に本格的に足を踏み入れた時には、予め用意したペンネームで登場する予定だが、果たしてそれはどうなるか…

…嗚呼、そうか、という事は、もしかしたらHikaruの書いた本は、いつのまにか出版されているのかもしれない。違う名前ならわかりっこない。

実際、大手の出版社から発売するなら、編集から必ず「宇多田ヒカル名義にしてくれませんか?」と泣きが入るに違いない。売り出し方が違う。売れ方が違うだろう。その名前だけで随分効果があるのだから。そこを、今、Hikaruがどう捉えているかだよなー。点線みたいに、かなりの部分まで自前で準備するというのなら何の心配もないけれど、大々的に広告を打って、となると名義はここで大きな問題となるかもしれない。

脱線した。更にこの宇多田光名義の意義を考えるならば、これは、宇多田ヒカル宇多田ヒカルとして戻ってくるというサインでもある訳だ。ヒカル名義で仕事をするのは大体ここらへんまで、という領域が見えてきて、そこから外れた活動をしてみた時点で活動休止という事は、光がヒカルの名前で戻ってきた日には、ヒカルは以前のままのヒカルだろう、と。つまり、歌を作って歌う人だ。自らの可能性を狭めてしまう人ではないが、かといって今までの人生を放り出すような生き方もしないだろう。その証拠に、Goodbye HappinessのPromotion Videoでは自らの過去を抱き締めてみせたし、嵐の女神では自らを出迎えてみせたし、大体Single Collection Vol.2からして過去を抱き締める作品だ。そのコンセプトは、初回盤のケースのデザインにまで及んでいた。新曲が過去の楽曲たちを包み込む、というね。これだけやっといて戻ってくる時に過去と決別するだなんてなかなか有り得ない。やっぱり、宇多田ヒカルという名は、僕らとHikaruの間の約束なんだな。