無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

どこまでが私なのか

距離感、というと色々と考える事がある。「遠くの方に見る宇多田ヒカルってどんな感じなのだろう」とかね。

これだけ熱烈なファン(なんて言い方をすると自分に対する皮肉みたいだなと苦笑いしてしまうんだが)になってしまうと、少しでも近付きたい病に罹ってしまい、早い話が宇宙の中心が彼女になる。そうではなく、それこそ遠くの空に輝く星をのぞむような距離感でヒカルを見てみたらどんなだろう、というのは度々気になる。

これは、どうしようもない。それに、不必要だ。一生距離を取ろうという機会が無いのであれば、そんな所からの眺めを知っていても何の役にも立たない。いやそれは言い過ぎにしても、要するに時間の無駄かもわからない。そんな隙があったらもっと近付こうよと。

最近復帰後の"一般の人たちからの反応"を気にするエントリーばかり書いてる気がするが、私個人の、音楽家宇多田ヒカルorUtada Hikaruに対する期待感は桁違いであり、正直何の懸念もしていない。曲は書ける。

桜流しを作った人の最新作品。どうなる事やら。例えば今年はANATHEMAの新作が素晴らしいが、あのクラスの音楽に"格の違い"を見せつけてくれるのではないかという期待感を召喚するのは容易である。その前の作品は嵐の女神でありSMLNADでありGBHであり愛のアンセムでありキャンクリであり、This Is The OneでありQuiet Versionであり…ってそこまでいくともう6年も前の話になるのだが、そうだとしてもこの流れの中にある音楽家の次作に期待するなという方が無理だ。正直に言おう、売れようが売れまいが些細な事だ。私に歌を聴かせてくれ。それでもう十分過ぎる。それ以上はただのラッキーな御褒美でしかないよ。貰えたらありがとう。しかしそれで何かが変わる事も何かを変える事もない。ひたすら、音楽家として、曲が書けるか。書くだろう、そりゃ。

勿論、人間性や哲学の変化も気にはなるが、今の御時世そういった発言はどちらに転んでも叩かれる。黙っているのがいちばんだ。ちょっぴり、悲しい事だが。後は歌に任せてもいいのではないか。そこからひたすら読み解く事にする。

Hikaruが8年生の時に読んだエドガー・アラン・ポーのある掌編小説では、絵のモデルが絵に魂を吸い取られていくような描写があったらしい。残念ながら著作権フリーの日本語訳はないのだが、英語原作は既にパブリックドメインなのでWebで幾らでも読める。掌編なので10分とかからないだろう。で、だ。Hikaruが今後どれ位のスタンスで音楽活動に取り組むか、は結構気になる。そこには、人間性や哲学、何より人生観が反映されている事だろう。具体的なメッセージは無くとも、その生き様は強烈なメッセージになりえる。

一方で、そういう暑苦しい話とは無縁に軽やかに生き抜いて欲しい、と願う可能性も考える。もっと楽しく音楽と触れ合えたら、と。遠くから見ていて人が羨ましいと思うのは、そこに苦しんでいる姿を発見するより、楽しそうな笑顔を発見できた時だろう。「これでいい。これがいい。」と今の自分をすんなり肯定できる生き方を、この3年半してきてくれているのだろうか。だったらいいな。

そうやって、"羨ましがらせる"事が出来たら、自然とまた売れていくような気もする。半分以上願望なのだが。ただただ苦しみ抜いてキャリアを築き上げていくならその精神力は素晴らしいが、音楽ってそういうものだったかなとふと立ち止まってしまう。昔中居クンに「お前いつも楽しそうだな」と言われたあの笑顔を、また見てみたい。もっとも、あの笑顔もまた、人との距離を調整する為の"必死さ"の顕れだったのかもしれないけれどもね。