無意識日記々

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誰も"歌が上手い?"と疑うまいと。

ヒカルが最初のコンベンションで歌ったのは「上を向いて歩こう」ではなく、その英語カバー曲の「Sukiyaki」だった。今振り返ってみれば、突っ込み所満載の選曲である。小学校の大部分はNYに居たとはいえ、見た目もモンゴロイドで名前も漢字で日本語も堪能で日本にある学校に通っていて…確かにもうこれは『バリバリ日本人じゃん』と言い放ちたくもなるわな。

そんな日本人歌手がSukiyakiを歌うというのはある種ギャグである。逆輸入ですらない。普通に「上を向いて歩こう」を歌えるのだ。なのに敢えて英語で歌う。なんだったのだろう。英語の歌唱力を披露したいのなら、ヴァネッサ・ウィリアムズでもミニー・リパートンでも普通に英語の歌を歌えばよかったのに。

15年前は、そんな些細なツッコミは、したとしてもかき消されていただろう。それ位、この15歳の少女の歌唱力は抜群だったのだ。「こんな日本人が居るのか!」―誰しもがそう思った。

しかし、今こうやってFL15DXに収録されている音源で聴き返してみると、「やっぱり随分上手くなったんだなぁ」と感嘆せざるを得ない。今のヒカルならこうは歌わないだろう、という箇所が多々ある。いや確かに、どこかしら自分の歌を見せつけてやろうという空気があるので、今のヒカルが"そういうつもり"になって歌えば、おんなじようなアプローチに収束するかもしれない。

本人も言っていたが、カフェは兎も角どこか見知らぬ国のバーかなんかで自分の歌唱力で人々を振り返らせてみたい、なんて事になったとしたら。その時は、こういう風に「歌唱力を見せつける」歌い方になるだれう。今の日本で、ヒカルはそういう気分になるか。カフェやバーでなく、こどもたちを相手にしてみたらどうなるだろう。今の子たちは、アイドルとボカロくらいしか歌い手を知らない。となると、そもそも「歌が上手い」という事がどういう意味なのかわからないかもしれない。

私の世代は演歌もニューミュージックもフォークもアイドルも歌謡曲もJpopもJrockも何もかも耳に出来た世代なので、歌唱力というものは朧気ながらにでも何の事かわかる。しかし、今の、例えばこのヒカルがSukiyakiを歌った頃の年齢―15歳くらいの耳に「上手い歌」は届いているのだろうか。甚だ心許ない。

そんな子たちにヒカルが"歌唱力を見せつける"としたら、どんなアプローチになるのやら。そもそも無意味な徒労となるのではないか。そう考え始めると絶望するしかないが、結局は、前からずっと言っている通り、「自分の歌を誰に聴かせたいか」がハッキリしているかどうかなのだ。それさえわかれば、歌い方は決まっていく。いや、逆からいった方がいいか、"思い浮かべる顔次第で歌も変わる"と。Hikaruの中でその点についてある程度決着がついているならいい。しかし何より、復帰に踏み切らせるには、「この歌を聴かせたい人が居る」か、若しくは「この歌を聴いてくれる人を見つけたい」か、どちらかが必要だ。ただ歌を作るだけなら、レコード会社は必要ない。自分ちで、借りたスタジオで幾らでも作れる。宇多田ヒカルは、そうではないだろう。16年前の夏に取材陣に誇示したように、「私の歌を聴け!」という気分が今、漲っているかどうか。我々の関係性はそこから始まるのだ。