無意識日記々

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“操作0”

前回の論旨は「着うたのように、生活の中に自然に音楽を溶け込ませるにはどうすればよいか」といったものだった。呼び出し音というのは、勝手に鳴る。音楽というのは聴いて貰わなければ始まらない。皆どうやってリスナーに届けるかに日々頭を悩ませている。無論着うただって知って貰って買って貰わないと着信音にはならないのだが、一旦なってしまえば、生活の中で"自己主張"が出来るようになる。今まで、生活の中で音楽を聴いて貰うには何がしかの装置の電源を入れて貰う必要があったが、着うたは操作0でリーチした。この面でも画期的であった。そのせいで、まるまるワンコーラス聴きたいが為に電話の向こうの相手を40秒待たせる、だなんて事案も発生していたのだけどね。

スマートフォンの時代、操作0とまではいかなくとも、音楽を聴くまでのステップは少なければ少ないほどよい。昔は、いや今もだな、「娯楽の王様」とまで言われたテレビジョンは、その操作性で圧倒した。電源ボタンを入れてチャンネルを合わせる。僅かツーステップ、操作2である。ゲーム機もその簡易さは群を抜いていた。ファミコンゲームボーイもカセットを取り替えて電源を入れるだけ。パソコンが隣で立ち上げに四苦八苦してる間にこどもたちはもう遊び始めていた。あとは、新聞だ。家に直接配って読ませる。文字媒体であのショートカットは素晴らしかった。

音楽の場合、昭和の時代はラジオやカセットの手軽さとアナログレコードの重厚さが混ざり合っている中で、後半はラジカセとウォークマンなんかが中心になっていった。こちらも、CDやカセットを入れて電源ボタン、再生ボタンを押すだけ。3ステップ程度だ。これが部屋に置いてあった。

今の子はCDラジカセなんぞ部屋に置いてるだろうか。最早パソコンの方が多いかもしれないし、スマートフォンはもっと多いだろう。

スマートフォンで音楽を鳴らす時、スピーカーとイヤフォンは頭の痛い問題である。本体のスピーカーは総じて力不足で、それで音楽を聴きたいとはなかなかならない。かといってイヤフォンを取り出してきて差し込んで、というのはグンと操作ステップ数を増加させる。ラジカセ時代のように手軽に音楽に触れて貰う方法が必要だ。


…何故こんな話をしているかといえば、ヒカルの曲作りがどちらに向かうかというのに少なからず影響を与えるからだ。生活の中で、どのような場面で曲が奏でられるのか。その想像力なしに曲調を定めるのは難しい。

Flavor Of Lifeの、特にバラードバージョンは、テレビドラマのクライマックスで流れて、且つ携帯電話の貧弱なスピーカーから流れ出てきても耳を引くような、壮大さと親しみやすさの両方を持っていた。それが時代の音だった、と言ってもいい。数十秒で途切れる環境では、音質が貧弱な事はそこまで問題にならなかった。その為に歌は"観賞"の対象には全然ならなくなってしまった。アナログレコードや、今でいえばハイレゾ体験とは全く逆の方向に最適化してしまっていたのだ。

それから8年。手元のYoutubeで歌のPVが無料でチェック出来る中で音楽再生媒体装置はどのような進化を遂げるか。まだまだ考えるべき事は山積みなのです。