無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

XYZとだけ書いて去った事ある?w

昔のファンサイト掲示板か〜。今と違ってアウトプットの場所が相対的に少なかった為特定の場所に発言が集まりやすかった、というのはあった。発言量の多寡でいえばリアルタイム検索が可能になった今のTwitterの方がずっと多い。"宇多田"というワードで検索すれば、出るわ出るわ。日本にはこんなにもヒカルの事を思ってる人間が居るのだなぁと再確認できる。

と言っても、Twitterのコンセプトは"つぶやき"なので、基本どれも独り言だ。それを幾ら集めても昔のBBSのような"交流してる雰囲気"は現れてこない。リプライを集積するとしても誰かのID縛りという感じになる。この、個々人を基本単位として緩やかに繋がっている感じは確かにヒカルに(相対的には)合っている。

極端に言えば、昔の掲示板にはヒカルは登場しなかった。肝心なのは「全く登場する可能性が無かった」点だ。それを前提として皆が発言する為、当の主役であるヒカル本人の事が何故となく置いてきぼりになっていく展開もあった。そういう意味で、結構純化された"ファンの為の"システムになっていた。

Twitterでは、低いながらもヒカルから反応を貰う可能性がある。実際に貰えるかどうかよりも、その場に可能性が存在するというのが大事だ。誰しも、@utadahikaru と入力する時にその可能性が頭をよぎる。もしかしたら。もうそれだけで十分だ。「ヒカルからもみられているかもしれない」。こうやって、どんな有名人も相対化されフラットになっていき、純化された"フォロワー数"だけが力の指標となる。較べたくなければ無視しても弊害はない。このシステムの構築者のコンセプトは見事なものだ。

時代とともにシステムは移り変わり、新しいシステムによって新しい時代が形作られる。人々の心さえも変化させて。昔のトラブルといえばBBSで誰かと誰かが対立して泥仕合、てなもんだったがTwitterではすぐに群がってきて"炎上"騒動となる。雰囲気が随分違う。剥き出しの個人、という不安も抱えておく必要があるだろう。

どちらがいいという訳でもなく、ただ性質が違うというだけだ。掲示板のもっていた発言の集積による熱量の密度は確かに懐かしい。そのうち、今のTwitterによる雰囲気も懐かしがる時が来るかもしれない。来ないかもしれないけれど。もう2015年という事を考えると、このサービスも結構な歴史を誇るのだな。ただ、データが今後残っていくかどうかが不透明だ。去年はツイートデータのダウンロードサービスも始まった。いやまぁTwilogが潰れなければそれでいいんですけどね。


で、新年の挨拶はまだなの?