無意識日記々

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なにが「あはは」だ

なぜヒカルのオーディエンスのサイズ幅について気にしているかといえば、多分私個人の答が決まっているからだ。究極的には、自分一人の為に歌って欲しいのかもしれない。もし自分が歌えるなら一緒に歌いたいのかもしれない。

…いや、そうでもないかな(どないやねん)。自分も含めたほんの数人とか数十人とか数百人の為に…嗚呼、人数ぢゃないんだ。そうか。


ヒカルの歌は、スケールが大きいとかダイナミックとかそういうタイプではない。声量や技術で押す訳じゃない。人の心の機微を繊細に歌い上げるタイプだ。つまり、大音量や大音響を必要としない。寧ろ邪魔。そういう歌だから、セッティングは親しみ易ければ易いほどいい。ピアノ1台、ギター1本、いやマイク1本だけで歌を聴かせてくれれば既に極上、というタイプの歌唱なのだ。だからヒカルのLIVEはできるだけ小さい所で観たい聴きたい歌いたい(主にぼくはくまを)。

これはヒカルに対して「売れなくな〜れ・売れなくな〜れ」と呪いを掛けているに等しい。それはやっぱり酷いので気が引けているのだ私。

音響さえよければ、つまり、何万人相手をしてくれても構わない。しかし現実は、大きな会場でいいサウンドを出せるのなら小さい会場ではもっといいサウンドが出せるだろう。結局そうなっても「より小さい会場で聴きたい」と私は言っている。間違いない。

そういう意味において、ヒカルを大きな会場で観るメリットは無い。勿論、大きな会場で開催すればそれだけ多くの人に観て貰えるんだが、それならひとまわり小さい会場で何倍もの回数LIVEをやればいい。

現実はその選択肢は選ばれない。興業主は、常に最大効率で利益を追求する。武道館で6回やるより国立競技場とかで1回やる方が儲かる。それだけだ。

呪うか。健全じゃないよな。

一生このジレンマに悩まされるのかな。確かに、私個人はパイプラインカフェで間近に観たからもういい、という言い方も出来るがそれよりまだこの地球上のどこかに存在するだろう「ずっと応援してるのに一度もヒカルちゃんのコンサートに行った事がない」という人の事を考える。どう考えてもおかしい。そりゃあ宇多田ヒカルは歴史に残る偉大な人物だが、プロフェッショナルである以上優良顧客を蔑ろにする事は許されない。平たく言えばそりゃ冷たいよ、と。ヒカルだってそれでいいとは思ってなかろう。そう言ったまま死んでいった人たちも、もしかしたら居るかもしれないし。言い出したらキリが無いけれど。

ただ聴いて沁みたいなら小さい会場がいい。その本音は私揺るぎない。でも、仲間が人生に悔いを残すとなると躊躇う。他人の事なんか正直どうでもいいのだが、なんかそれとこれとは違う気がする。ヒカルの5もWILD LIFEも自分の応募分で当選して参加しているだけに、それがただの運だとよくよく知っているだけに、心に引っ掛かる。場合によっては、私がその人になっていたかもしれないと。「ずっとなのにまだ一度も」の人になっていたかもしれないと。

それはとてもやるせない。Stood by, helplessだと、そう思う。なぜだが当事者意識が消えないのだ。多分、あぁ、うん、ヒカルもそう思っているのか。だから結局、小さい会場で聴きたいという私の素直な欲望は影に潜ませられて、どんと売れてデッカい会場でツアーをしよう、という提案に、最終的には辿り着くのだ。心理。


つまりただの現状追認だな。

で。復帰して売れなくて、その時に私が妙に嬉しそうだったら察して欲しい。それはそれでおーらい、なのである。

ヒカルが歌うならどちらに転んでも喜んでいる。ただそれだけの、ことだった。あはは。