無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

It was, is, will be You & Me.

音と光の比較は以前「取り調べの可視化」について取り上げた時に述べたものだった。音声はそのままその部屋にマイクを一本立てればいいとして、カメラはどの位置に何台備えつければOKなのか? 一台を定位置に置くとして、死角で何かあったらどうするのか、と。

魚眼レンズを中央に置くという手もある。後から再現するのは面倒だが、パノラマ写真サイズの動画が生まれるという訳。いずれにせよ「取り調べの可視化」とは不正防止の取り組みの一環なので、正確な記録云々よりは、抑止力として機能するかどうかに焦点が当たるだろう。その為のノウハウは、結局、現場を知る人間でないとわかんないだろうな。

音は斯様に全方位からの情報をクマ無く得る事が出来る。厳密にいえばマイクロフォンの振動板の向きによって音にも死角は出来るのだが、録画のそれに較べるとずっと対策は容易だし、音は幾らでも混ぜる事が出来るのだ。

その代わり、(モノラルの)音は「方向」という大事な情報を殆ど失う。右から来た音も左から来た音も「音量」とそれに伴う距離情報までしか得られない。パースペクティヴがないのである。距離だけだ。

“DISTANCE”という曲が作られたのは、そういう哲学が背景にある。自己と他者を1対多で見る時にはパースペクティヴが必要で、自分からどの方向にどの人が居るかというのが情報として意味を持つ。しかし、自己と他者が1対1で向き合う時は方向の情報は無用になり、その距離だけが意味を持つ。“DISTANCE”とは、音の世界の哲学で語られた言葉なのだ。

然るに光は、歌う事の本質にそこから既に寄り添っているという事になる。この曲が後に“FINAL DISTANCE”に変貌し、光は編曲術に大幅に関わるようになった。音楽をステレオとして、立体、いや面として捉えるようになったのだ。だからといって歌という音の化身の力が奪われた訳ではない。1対1すら多様だと学んだだけである。音と光の物語は、今に至り未来に渡り末無く続いていく。