無意識日記々

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説明不足と説明過多の母娘関係

とと姉ちゃん」は、どうにもまだ一週間6日間の尺の取り方に慣れていないようで、トラブルが起きてから金曜土曜で何とか収束させる為どうにも説明不足な感が否めない。滝子と君子ももっと早い段階で「似たもの同士だから起こり得る親子喧嘩」という面をアピールできていたらスムーズに仲直りが受け入れられたんだろうけれど。そこらへんを脳内補完してくれる層にはおしなべて評判がよいイコールプロット自体は悪くないのだから、そこらへんのペース配分が出来てきたらもう少し評価があがるだろう。しかし、それが出来てくると今度は視聴率が芳しくなく、みたいなサイクルに入りそうなので制作側はブレずに行って欲しい。


昨日コンビニに寄ったら『真夏の通り雨』が流れてきて思わず「重いよ」と呟いてしまったが、こんな曲が“ヒット曲”として流通してるだなんてつくづく異様な事態だなぁと痛感する。ネーム・バリューの差だと言ってしまえばそれまでだが、『花束を君に』とな売上の微妙な差異が妙にリアルで、嗚呼これは本当にこの歌の評判で売上が出ているんだなぁと感慨が湧いてくる。

先週指摘したように、『真夏の通り雨』はヒカルの過去曲を思わせる歌詞が満載(しかもメロディーの一部は『Letters』の妹分だ)な為、古くからのファンには特に歌詞が突き刺さる。その上内容が亡き母への想いとくると、それこそ涙無しでは語れない。

2016年という今にリリースされるからには、それはとてもいい。時の流れとエピソードの畳み掛け。今ヒカルの歌を聴く人の多くは、藤圭子さんの事を御存知だろう。

しかし、それはこの歌の美しさには直接関係ない。毎度(多分これからも幾度となく)書いているように、もし作品の理解に過去の情報が必要ならその情報も歌に同梱した上で新しい1つの作品として提示しないといけない。この歌は古典となるべき歌であって、その時いちいち学校の古典の授業のように「この時作者は母親を亡くしていて…」だなんて解説をしなくちゃならんのか。それはどうなの。

そんな注釈なんぞなくてもこの歌は単独で凄い。そこを区別して、つまり、ヒカルと我々に在る藤圭子への想いとは別にして、この歌を紐解かねばならない。確かに、ニーズはない。圭子さんの事はリスナー皆が知っているからだ。普通名詞のようなもので、『真夏の通り雨』に各単語の辞書的解説が無いように、圭子さんの事もいちいち言わんでいい。

だが、こちらの立場としては、そこを敢えて切り込んでおきたい。今後ファンになってくれる若い皆さんには、藤圭子を知らない世代がきっと現れる。そんな人たちが聴いて解釈する事もまた『真夏の通り雨』の一部なのだ。手は抜かない。