無意識日記々

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二度と

そうか、今日で『FINAL DISTANCE』発売から15年か。向こうから15年後を眺めるのは大層難しかったが、なるほど、こんな風になってるのねぇ。未来への風景というのも興味深いもんだ。

この時のセッションでヒカルが痛感したのは、総合して言えば「曲が作曲者の意図を超えて育つ」という事実だろう。作曲は、最初に頭の中に浮かんだアイデアを忠実に現実の音にする事にとどまらない。作っていくうちに、向こうから何かを喰い破ってくるかのように、「生まれてくる」としか表現し得ない、強い存在を感じる事だと身を以て経験した。その最初…かどうかはわからないが、その記念碑的作品ではあるだろう。

翻って15年。『俺、こんな作品二度と作れねーよ。』という一言は、作品が自らの意図を大きく超えて育った、という事を意味しているようにみえる。他にも、母を亡くすのは一度きりで十分だから、とか(確かに)、同じ作風を繰り返す事はこれからもない、とかの解釈も可能だろうが、どちらかというと、“まぐれ当たり”を指して「お、俺今のもう一回やれって言われても無理だから! たまたま当たっただけだから!」と狼狽しているのに近いように思える。

でも、クリエイターはそれでいいのだ。人生は一度しかない。毎回そのまぐれ当たりに辿り着いた挙げ句に人生を終えれば、本人の実感とは別に、それがその人の実力としての評価になる。要は、まぐれ当たりをその都度捕まえて世に出すまでの苦労に耐えられるか、だ。それが出来る人だからここに居るのだ。

しかし、毎度まぐれを当ててばかりだと今度はそれが普通になってしまってまぐれでなくなっていく。そうなると更なる大きい当たりをどこかで見つけなくてはならなくなる。その時に、そこからより高い場所を目指すか、一旦下山して他の山を登り始めるか、悩みどころだ。今度のニューアルバムはその問いに対する答になっているだろう。

FINAL DISTANCE』には、したがって、今はもう取り戻すべくもない初々しさがある。この完成度で初々しいもないと思うのだが、新鮮な驚きと、二度と来ないかもしれない瞬間を大事に大事に抱き締める幼けさが録音から漂ってくる。初披露のUnpluggedも見事だった。1回目と2回目、どっちのテイクだったか忘れちゃったけど。

33歳になった今でも「二度と」と言えるヒカルは恵まれている。しかし、恵みを齎したのはそうやって15年前から大事に大事に歌を歌ってきたヒカル自身だ。それをして孤独といわしめるのは簡単だが、最早今はそれを超えた所に居るのだろう。我々が答を知るまであと9週間。待ち遠しいの一言では言い表し切れない感情を抱えながら待つとしませうか。