無意識日記々

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まだらの模様 Murderer No More

19名刺殺事件は、思想犯と受け止められるのがいちばん怖い。模倣犯とまではいかなくても、思想に共鳴・共感する人たちが出てくるだけでも脅威は増す。ある意味、組織だったカルトやテロリストよりも厄介だ。組織なら本拠地を叩けばよい(できるかどうかは別にして、理屈上はね)が、思想の伝播を根絶するのは難しい。特に今回、衆議院議長に宛てた"計画書"が公開されたのには寒気を感じる。あの文を殺人に関する部分だけ削除して見せられたら共感する層はぐっと厚くなるだろう。これが安楽死の議論だと錯覚させればそれは安直に可能である。

ポイントは、本来そこではないのだ。殺人という事実そのものが重要であり、動機が崇高だとか卑劣だとかは関係ない。そもそも、殺人という現実に対して動機について語る事自体が誤りなのだ。人はどんな理由でも人を殺せるし、理由がなくとも人を殺せる。それだけの事なのだが、我々は高度に組織化された教育を受けて育っている為その事実を忘れがちである。更に、この国は他国に較べて殺人が異様に少ない。他方で自殺大国であり死刑執行国でもあるが。どうにも、殺人には、よほどの事情があるに違いないと思ってしまう。

違うのだ。どんな酷い事情があっても人は人を殺さない。理由があって殺す場合は、自明過ぎる場合がほぼ総てなのだ。正当防衛や事故など、社会的な事情でその内実が正確に伝わらないのが現実ではあるが、ひとたひ事情がわかれば議論の余地はない。


一方で、そこに真っ向から矛盾しているように思えるが、優生思想自体大変危険なものである。国籍や人種だけを理由に大量に人を殺す。ホロコーストは歴史的事実だ。何が危険かといえば、「人は人を殺す」という現実を激しく誘発するからだ。だから思想に取り込まれてはいけない。話の順序が大切である。人は殺す為に理由を探し始めるのだ。それが集積されると戦争となり、社会的に容認される。

だから、人を殺す理由を与えてはならないし、動機に同情してもいけない。どんな理由であれ、他の方法論が存在する。人を殺すのは、問題自体を「なかったことにする」為の手段であり、問題の解決から最も遠い場所にあるものだ。人の問いは、常に如何に生きるかという事なのだから。付言しておくと、だから、「逃げる」とか「避難する」のは立派な解決方法である。結果生きているのだから。苦しかったらあっさり逃げましょう。他の生き方を探すのも生き方のひとつですよ。


こういう話は幾らでも長くなるので、ここらへんで打ち止めにしておかないとな。こんな事を書く為にこの日記はある訳じゃあないんだから。次回からは通常運転に戻ります。多分。