無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

New 'n' Clear

ニューアルバム発売まで後9週。なんだろう。長い。流石に待ちわび過ぎたか。3年も6年も8年も待ってたくせにたった2ヶ月ちょっとを長く感じるとか、何というか、しゃらくせぇ。どーんと構えていたいと思うのだが、そわそわ、そわそわしてしまって、ついついキョロキョロあたりを見回してしまう。何なんだろうこれは。

毎度市場の話をしているが、それはヒカルがPop Musicを標榜しているからであって、私には直接関係が無い。寧ろ、"向こうの都合"をこちらが書いてみているという構図。興味が無い訳ではないが成否が価値観に組み込まれていないので、"関係が無い"という言い方がいちばんしっくりくる。ヒカルが居て、私が居て、歌があって、繋がる。That's All. 他に何か、言う事があるのだろうか。

「私」というのは、i_さんに限らない。これを読んでいる貴方の「私」もまた、歌に耳を傾け、ヒカルと向かい合う。関係とはまさにそれであり、他者はまた次の機会だ。恐るべきは歌であって、世界に広がる。皆の「私」がヒカルと向き合う。その時間帯がやってくるのだ。

究極のリアリティ。LIVEまでその表現はおあずけでもいいのだが、今回のヒカルは輪郭をハッキリクッキリ描くだろう。ハイレゾを視野に入れて高音質のマスター音源を録音しているから、とか発声法を見直したから、とか更に高いマイクに入れ替えたから、とか理由は幾つもつけられるが、ヒカルの歌は鮮明になる。曖昧さが排除されていると言いますか。繊細で小さな音は至る所に鳴り響くが、どれも確固たる意志と存在感を持ち合わせている。まるで手で触れるようなはっきりとした言葉の、声の輪郭。ニューアルバムでヒカルは、自らの存在を極めて鮮明に聴き手に伝える事に成功している。



…なんていうレビューを、ニューアルバムを聴いた暁には書けるような予感がしている。果たしてどうなりますやらな。

でも、目を瞑った時、私にとって最もリアリティのある存在は宇多田ヒカルである。まるでそこに居るような、いや、まるでそこに居るのより遥かに存在感があるような、そんなクッキリした存在なのだ。かつては、ガスになってこの星を包み込みたいとか、自分が生きてるのか死んでるのかわからない、と言ったあやふやな事を言っている時期もあったが、今のヒカルの、私の中のイメージは、殊の外クリアーである。なんだろうなこの感覚。吉良さんの死を全く予感できなかった感覚なので、アテになるかというと自信が無いのだけど。

子育てを通じて、キョーレツな「生きる意志」を育んだとしか思えない、という陳腐な表現が今の私に言える精一杯だ。自己嫌悪も自己悔恨も全て受け止めて、それでも生きる事を躊躇わない、誰に許されなくとも生きる。そんな強さを今のヒカルに感じる。どこまでこの感覚が当たっているのかはニューアルバムを聴けば明らかになるだろう。具に見守りながら待つ所存です。