無意識日記々

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キメラ日記

ヒカルがレッド・ツェッペリンでいちばん好きな曲は"Since I've been loving you"だがこちらがカバーして欲しいのは"Babe I'm gonna leave you"で、トレボヘでの"Stairway to Heaven"の披露は未遂に終わったようなものだ…という話は前にしたな。省略しよう。

Hikaruに「ニューヨーカーとしての自覚」みたいなものが今でも根強くあるとしたら面白い。ニューヨークと東京を行き来してきた人間がイタリア人と結婚してロンドンで息子と暮らしている…とするとアイデンティティって何?状態になりそうだが、半ば無意識に放送禁止用語を連発して「あらあたしって意外とニューヨーカー」と思ったのだとしたら、ふむ、こそばゆいな。

物事の「何がどうなっているか」には大変興味を持つ私だが、そうして得た知識に感情は伴わない。自分のルーツを熱心に調べたとしてもそのルーツに誇りを持ったり逆に卑下したりという発想がない。その意味においては、興味がないともいえる。

自分の発する言葉や生活習慣がいつどこの誰達から受け継いでいるか、という事実とその知識に対しては感情が喚起されるが、特定されたその人たちに対して個人的に思う事はないのだ。その壮大な仕組みや成り立ちには大いに感動するけれども。

確かに、自分でどこかブレーキをかけているのかもしれない。アイデンティティにこだわるとロクな事にならない、という逸話しか聞いて来なかったからだ。ナチスの優生思想などは最たるもので、ユダヤ人かどうかなんて本来心底どうでもいい事で命の峻別を行うなどおぞましいとしか言いようがない。史実として教えられてきたとはいえ、未だに嘘だったらいいのになと思っている。

国や人種、血統や家柄。そういったデータをつまびらかにするのは自己や他者を理解するにあたって極めて重要だが、ひとたび理解すればそれはもう「便利な時に取り出してこれる道具」でしかない筈なのに、どうしてこんな事になるのか。大体こういうのは途中からただの諍いの種にしかならなくなっていく。便利なものを崇めるなかれ。道具は道具なのだ。

なので、ヒカルが日本語の歌のルーツを求めて熊野古道を歩いたりするのは怪我や病気でもしない限り大いに結構だが、そうして見いだせた情報に対して、誇りを持つ所までは許せるが、崇拝したり絶対視したりするようになると「やだなぁ」と私は呟く事になるだろうな。まぁそれでも愚痴を言いつつ目は決して離さないのだろうけれど。

人の闘争本能ってそろそろ要らないのだ。発揮したら億単位の個体を殺せる程技術とエネルギーを得てしまった。国をはじめとして、旧千年紀の価値観の多くは戦争惹起装置である。今の新千年紀には絶滅して構わない。

話が大きくなった。まぁたまにはいいか。究極的には興味がないのだ。そういう話が好きな人はできるだけ邪魔をしないで、という意味だろう。自分事ながら。

話を元に戻すと、「親はこどもが汚い言葉を使い始めたらショックなのか?」という設問に突き当たる。まぁ大体答は「イエス」か。特に女親が息子に対して、とか男親が娘に対してそう思う気がする。ヒカルの今回の"反省"の根底にもそのような思いがあったのではないか。然し知る事と使う事は別なのだと教えれれば一歩前進だ。いい風に捉えよう。