無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

百合もどしどし、否、揺り戻しの話

けもフレ12.1話投入で「春アニメが息してない」と専らだが、本当に息してないのは作画厨の皆さんだろうかな。全然声が聞こえてこないや。

アニメ技術のインフレで昨今の作画レベルはあがりまくり。そこまでこだわらんでもという凝りようになっていたところにけもフレの大ヒット。結局多くのアニメファンは作画の質よりキャラクターへの愛着やストーリーの面白さを重視していた訳だ。

となると、ゲームの歴史を思い出す。マシンの進化に伴ってグラフィックの美麗さを追究していく中で、結局大事なのはゲーム性だよねと揺り戻しが起こる。ただその場合、新しいハードでかなり強制力を発揮しなくてはならない。任天堂ゲームボーイやDSがいい例だ。

携帯ゲーム機、という"言い訳"を通して、マシンのスペックを思い切り下げて、テトリスのような「ゲーム性命」のコンテンツを投入する。ゲームボーイなんて初代はモノクロだぞ。ゲームウォッチの昔の続きみたいだった。

アニメにおいて今回"言い訳"になったのは3DCGという事になるのだが、けもフレ12.1話がリリース可能になったのもプレスコに近いスタイルで声優の声をあてられていたからだ。アニメが出来ていようがいまいが声を兎に角収録してしまえればなんとかなる。「君の名は。」で時代の寵児となった新海誠監督も、総てをひとりでつくった「ほしのこえ」においてすら、声は差し替えたのだから、アニメで"必ず手を借りなくてはならない"のは声なのだ。他は天才なら音楽も含めなんとか出来るかもしれないが、声だけは無理なのだから。

ともあれ、そういった制作体制のフットワークの軽さを得られるのがCGアニメの利点であって、12.1話のような"仕掛け"が今まで皆無だったのは、単純に出来なかったのだろうな。


爛熟した技術を一旦捨てる事で他の利便性なり利得なりを得られる、というのはどの分野でも参考になるだろう。『MUSIC HUB』でヒカルとなりくんが2人して「世界中のスピーカーが全部同じだったらいいのに」と冗談を言っていたが、それを聞いて「嗚呼、末期だな」と思ったよ。日々サウンドのクォリティーを追究していくとそうなるんだよねぇ。

毎度AMラジオ等を例に出して語っているように、サウンド・クォリティーの追究はマニアに任せておけばよい。いや、作り手側すら「サウンドなんて気にしない」くらいの気概が必要なのかもしれない。

もっとも、ヒカルの場合曲も詞も既に素晴らしいし、歌唱力もあんななので、あとはサウンドクォリティーを追い究めるしかないのも実際ではある。ゲームでいえばグラフィックは美麗でゲーム性も高い、アニメでいえば作画厨も白旗をあげつつストーリーも面白い、みたいなもんだ。ひとり気を吐いている。全部いいのだから文句も出まい。

ただ、ハイレゾの盛り上がり方をみるに、音楽ファンがどんな反応を…という話になったら長くなりそうなのでまた次回ね。