無意識日記々

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atb!言いたい症候群、突発。

毎度お馴染み「こんな日記読んでる暇があったら『after the battle』聴いてこい!って言いたい症候群」が突発する時間がやって参りました。流石にこれだけ何度もアピールしていればもう『Passion -after the battle-』を聴いたことがない読者など居ないのではないかと油断している。サブスクで『Passion』のシングル盤にアクセスするだけだ。昔よりずっと簡単なんだぜ。

少し前に「ヒカルのインストが聴きたい。前奏曲や間奏曲でない、それ単独で楽曲として成立しているようなやつを。」と書いたが、自分がイメージするその“ヒカルのインスト曲”に最も近いのがこの『-after the battle-』の後半部分だろう。そういえば今ふと気づいたのだが、『-after the battle-』の英語バージョン『Sanctuary (Ending)』(というか、作った順番からすれば『Sanctuary (Ending)』の日本語バージョンが『Passion -after the battle-』だと言った方がいいのかな)って、インスト部分に日本語バージョンと何か違いはあるのだろうか。マスタリングの方は微妙に違うので『Passion』と『Sanctuary』でイントロクイズも成立するのだが(難易度最高峰になるけどなっ)、ミックス自体は同じな気がするなぁ。まぁそれはさておいて。

『after the battle』はもともと歌と演奏が重なっていた曲を、前半に歌、後半に演奏という風に時間軸をずらして分離した曲だ。と言っても前半はピアノの伴奏が本当に聖域的に美しいし、後半は歌の不在を不満に思えない編曲が為されているので楽曲としての完成度はオリジナルより寧ろこちらに軍配を上げたくなるくらい。勿論、依然シングル向けではありませんがね。更に、インストが先にあってそこから歌という展開(『Eclipse』や『Gentle Beast Interlude』がそうだよね)とは真逆の、寧ろ歌が前座扱いになっていよいよ器楽隊が切り込んでくるぞという体裁なので、器楽のみで“楽曲としての決着”をつけねばならず、その為にこの部分の音楽としての独立性と自立心がとても強くなっている。最後に演奏がブレイクした瞬間に訪れる至上のカタルシスは器楽曲としての完成度からくる聴き手の満足感の結実だといえる。ウチらメタラーはこういった構成による快感原則を“様式美”として崇め奉って四十余年なのだが、この曲はどちらかといえば打楽器のプリミティヴィティが楽曲としての本来の動機なので音像が全く形骸化と無縁である。形骸化の危惧のスリルを感じさせないものを様式美と呼んでいいものか迷うところなのだが、それ即ちこれを作った作曲者が紛れも無くオリジナルのコンポーザーである事を示しており、やはりこの後半部分を聴くとますます宇多田ヒカルさんに器楽曲に本気で取り組んでみて欲しいと願わずにはいられない。個人的な願望でいえば何十分もある長尺な楽曲を聴いてみたいところでもあるのだが、それもさておき、小品であってもその独立性と自立心、完成度と満足感が総て揃ったものが立ち現れるだろう事に疑いはない。キャリア二十余年にしてまだまだ“末恐ろしい”音楽家なんだと思いますよ宇多田ヒカルさんは。まだまだ沢山の可能性がこうやって煌めいているのだから。