無意識日記々

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生々しさの呪い背負う光の歌声色

『Fantome』収録楽曲での歌唱を聴く事で過去のヒカルの歌唱が雑に聞こえるようになった、という体験を経て、同アルバムでの丁寧な発声(雑の反対だからね)に慣れてくると、更に妙な事を思うようになった。「まだここから上手くなれる」と。

ヒカルの歌唱力の要諦は声量でも声域でもなくトーン・コントロールの微細さにある。トーンを"声色"としてしまうと山寺宏一みたいな"七色の声を操る"みたいなイメージに流れるので、やや婉曲に「楽器でいえば音色にあたるもの」位に捉えておいて欲しい。同じメロディー、同じ歌詞を歌ってもヒカルだと切なさが段違い、という時それはトーン・コントロールの精度の高さが由来である。絵でいえば毛先の細い筆ほど繊細で美麗に描けるように、ヒカルもまた声の毛先を尖らせて歌っている。この点においては他の日本語歌手の追随を許さない。声量も声域もスタミナも欲しいけれど、本職の歌手がいちばん欲しいのはこのトーン・コントロールの技術なのだ。

しかし、ヒカルの声には圧倒的な弱点がある。発声が"汚い"のである。トーン・コントロール以前に一定の音程で出した音に対して雑音が多すぎる。勿論ヒカルは心得ていて昔一度「声が荒れている方がエモーショナルに歌える」と言い張って声を荒らして歌って不興を買ったらしいが、味方につける術を心得る程にヒカルの歌声色(うたこわいろ)は雑味に溢れている。

一応フォローしておくと「声が荒れている方がエモーショナルに歌える」というのは正しい。不興を買ったのは、恐らくその時の聴衆が昔ながらのソウルやブルーズに興味のない層だったのだろう。過去の名ブルーズシンガーには濁声でエモーショナルな歌を聴かせる人が何人も居る。ヒカルは寧ろそういった伝統に忠実な歌手であるといえる。

それでもなお「弱点」と私が言うのは、その声を使ってスタジオワークで凝るからだ。多分何十%は三宅さんの責任なのだが、「コーラスを楽器のように使ったアレンジ」を多用する時にヒカルの声はネックになる。いや、コーラスは何声も重ねていけば雑味が中和されて美しくなっていくものなのだが(絵の具と逆で光と一緒)、そうやってコーラスワークの雑味が消えれば消える程真ん中で一声で歌っているヒカルの歌声が浮いてくる、乖離してくるのだ。これが私の思う弱点だ。

人によってはまるでボーカロイドのような規則正しい発声でヴォーカルを重ねて、まさに徹頭徹尾声を楽器として使ってフューチャリスティックなトラックを作り上げるのだが、ヒカルが歌うと『Passion』のような抽象的な曲ですら最終的に生々しい人間の生身の感情に帰着させる羽目になる。ヒカルの曲のアレンジが抽象美に満ちている事など、普通のリスナーは知らないだろう。どこまでも耳に残るのは中央で雑味たっぷりにエモーショナルに歌うソウルとブルーズの伝統に忠実なヒカルの歌声だ。

当然この弱点は、全体を通して見れば最大の美点にもなりえる。それはわかりきっているのだが、今後はそこに幅を持たせていけばどうだろう? 雑味は今まで以上に、お母さんのようにアクが強く歌い、一方で更により丁寧な発声と語尾で、コーラスワークに違和感のない歌声も駆使する。となれば更にヒカルの歌唱力は上がるのではないか。ヒカルの歌の拭い切れない生々しさは最早呪いのようなものなのだが、その呪いこそが"藤圭子の忘れ形見たる所以"そのものなので、今後もその業の深みを掘り下げていって貰いたい。言っても、実践は途轍もなく困難だろうけど…。