無意識日記々

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やっぱり、考え過ぎているかも。

ドラマ花晴れで目下いちばん"心かき乱されている"存在といえば、菊池桃子演じる音の母親由紀恵だわ私。いや、由紀恵を演じている菊池桃子に、かな。どっちなのかようわからん。

いや別にあたしゃラ・ムーのファンだったとかそういう事ではない。菊池桃子には何の思い入れもない。ただただひたすら、由紀恵の描かれ方が定まっていないように感じられて落ち着かないのさ。

西洋小説風にいえば「零落した貴族の奥方」みたいなポジションなんだが、どうどっちつかずなのかといえば「環境が変わっても変わらずマイペースで天然で楽天的な為呆れられながらも愛されている」キャラクターなのか、「環境の変化についていけず陽炎のような過去の栄光に固執して今在る現実を受け入れられず、的外れな事ばかり言い、精神が壊れかかっている為心底周囲から心配されている」キャラクターなのか、一体どっちなんだアレは。

多分、原作漫画を読めばそこらへんのニュアンスはちゃんと着地してくれるんじゃないかと読んでいる。ドラマが終わったら原作を読んでみようかな。今ドラマだけの情報で画面を見ている視聴者としての私の心境がどうなのか、という話をここではしておきたい。

別に、キャラクターを極端に描く必要はない。ポジティブ4:ネガティブ6なキャラクターならそう描けばいいし、人の心理はそうそうキッパリするものでもない。描かれる場面によって、1:9にみえたり8:2にみえたりするのがどうにも心許なくてな。

なんでこんなに気になるのだろう、と考えてみたのだが、いや何の事はない、「ヒカルがこれを見たらどう思うのだろうか?」というのがずっと心の片隅にあるからだ。

純子さんが精神を患ってはったのは周知の事実だが、その詳細を我々は知らない。菊池桃子の演技は、場面によっては(昭和までの表現を敢えて使うならば)"気が触れてしまった"ようにもみえる。こんなコメディタッチの青春ドラマで「精神を患った母親を健気に介護する娘の高校生」を描いているとすれば随分ヘヴィだな、と思ってしまうのだが、例えばヒカルが高校生の頃にお母様とこんな会話を交わしていたとするなら―それはいい思い出なのだろうか?もう忘れてしまいたい記憶の1ページなのだろうか?

詳細を知らない以上、度を超えた憶測は憚られるべきだ、と思いながら、年齢を重ねても往年の愛くるしさをキープしているようにみえる菊池桃子(ったって特にファンでもないので「おぉ、ラ・ムーから30年経ってもかわいいもんやな」っておっさんが呟いとるだけですがの)の立ち位置の定まらない芝居をヒカルがどこかで目にした時に立ち現れるかもしれない幾つかの感情を、ついつい想像してしまうのだ。

またまた考え過ぎだと『Play A Love Song』に諭されてしまいそうだが、こればかりはどうにも難しい。判らないこと、知らないことが多すぎるからだ。余計な事を今書いてるな、という自覚はある。それでも書いているのはこのぞわぞわとした感覚に何とか決着をつけたいから、なのだろう(と自己分析)。余計なお世話だとか人の気も知らないでと言われそうだが、ここら辺が正直な気持ちなのです。