無意識日記々

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はだしではしる くつであるく

でその1999年に『First Love』を主題歌にしたテレビドラマ『魔女の条件』のウィキペディアにこんな事が書いてある。

── 挿入歌として宇多田の「Never Let Go」が使用されている。

へぇ。確かに、女教師と男子生徒の悲恋の物語に『Never Let Go』は合うわな。

『二人で靴脱ぎ捨てて

 はだしでかけていこう

 無感覚の中泳いで

 不安の中走ってく』

なんてところは二人が世間のしがらみから逃げて駆け落ちするのに相応しい。ここでいう『靴』は世間での役割や社会的責任みたいなイメージだ。もっと精神的なもの、その道で生きていく覚悟みたいなものでもいいけど。

『A mile, could you walk in my shoes

 All your, all your life』

こちらはそれから20年後、『Face My Fears』の歌詞である。人生総てを賭して長い道のりを私の靴で歩けるかと問う。「黙れ小僧!お前にサンが救えるか!?」ってなもんだ。CV:美輪明宏。その靴を脱ぎ捨てて走り出すのだから所謂“逃避行”ってやつだわね。再び『Give Me A Reason』の歌詞を引用しよう。

『子供みたいに声を上げて走ろう』

直接『子供みたいに』と書いてある通り、ヒカルのイメージの中で「走る」という言葉はどこかこどもっぽいイメージがある。責任や役割といったものから解き放たれている状態とでもいおうか。ある時はそれは解放でありある時はそれは逃避行でありいずれにせよ大人みたいに何か腹を括った行動をするのとは違いますよという感じ。

『Give Me A Reason』が

『Only Sixteen 今夜

 矛盾だらけの自由に追われながら走り出す』

から始まって

『子供みたいに声を上げて走ろう』

で終わるのも示唆的だ。尾崎豊が好きだというのもあったのだろうが、ひとえに、大人でもこどもでもない年齢で自由や理由や責任や立場といったものとのあやふやな距離感を何とか受け容れようともがいている風が受け取れる、のに最後は全部うっちゃって、で結局走りだそうとしている。それがまるで自由なんだと言いたいかのように。悩みに悩んで結局走るのは一緒なんかい、と。

英語の“run"には「走る」というのみならずそれだけで「逃げる」という意味もある。なぜか「追う」と訳すケースは滅多にない。そういう単語のイメージもまたあったのかもしれないが、20年越しの『はだしでかけていこう』と『私の靴で歩く』の対比はわかりやすい。しみじみ、大人になったんだねぇと。確かに、「魔女の条件」でいえば当時は滝沢秀明の年齢に近かったが今なら松嶋菜々子の側だもんね。時間は走るどころか飛ぶように過ぎていってるわ。