『Face My Fears』EPの4曲を聴いてると、やっぱり英語の歌の方が声が細く感じる…何故だ…。まぁそんな話は追々、ね。
さて『Laughter in the Dark Tour 2018』公演の記述に関しては最初に宣言した通り極力ドライに徹した訳だが。会うのが8年ぶりだとか初めて会ってから20年近く経つとかいう“感動のアドバンテージ”は全部排したつもりだ。例えば『First Love』の歌唱に20年の積み重ねを感じた、と語ったのはまずその時に耳から入ってきた歌声に感動したからであって、積み重ね云々はその感動の理由や原因を探った血管に過ぎない。ヒカルの歌唱から齎される感動の源泉が昨晩飲んだウィスキーならそれはそれでよいのだ。20年なんてのは分析の素材に過ぎない。
そこまでドライに徹してもこれだけ心揺さぶられる瞬間が山ほどあったのだ。もし私が『8年ずっと待ってたんだから…!』と感涙に打ち震えヒカルが姿を現した瞬間に泣き崩れるような態度でいたとすれば、この135分で文句なく精神を崩壊させていただろう。こんなのもつはずないもん。
「無意識日記の執筆者が宇多田ヒカルの帰りを8年間待ち続けていた。」と書いても反論できる人を見つけるのは難しい。これだけ書いてきてるからね。だから多分、自分がいちばんうまくやれる。やってみよう。
昔書いた通り、自分にとっては毎日が「宇多田ヒカルに会えなかった日」でしかないので、それが8年だろうが8日だろうが大した違いは無い。違いが出てくるとすれば、「宇多田ヒカルに会えた日」に得たインプットを消化する為の時間が生じる事だろうか。それを考えると、ライブのみならず、自分はアルバム『初恋』はおろか『Fantome』すら消化しきったという実感がない。聴く度にまだまだ考えなければならない事が沢山あるなと実感する。それを言ったら『Single Collection Vol.2』の曲だってそうだし『This Is The One』だって『HEART STATION』だって…とキリがない。いつだって前のを消化し切れないうちに次のがやってきてるから負債は溜まる一方だ。そういう風に捉えると、自分の持つ渇望感というのはヒカル成分が足りないというよりは過去にくれたものを消化する為の新しいヒントが欲しいという感情が大きな割合を占めて常に心内に存在しているような気がする。要はもっと知りたいだけなのだ。
それを続けているといつまで経っても亀に追いつけないアキレスみたいになりそうだが、「歌」は違う。歌は、聴いている時や歌っている時が“今”なのだ。アキレスと亀は一緒に並んで歌えるのだよ。
ヒカルが“今”に拘るのは“そういう歌手”だからではなく“歌手”だから、だ。歌とはそもそもそういうもので、しかも今ある今が過去と未来に繋がっていると感じさせれる事も出来る。それが出来るのは歌くらいかもしれないし他にもあるかもしれないが、ヒカルは取り敢えず歌っているから今は歌だ。ライブで観た人聴いた人は知っているだろう。その日実在したのは、宇多田ヒカルさんだけじゃなくて歌もなのですよみなさん。