無意識日記々

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くまの故郷

ヒカルの歌詞は母娘の関係性から生まれた感情を多くの場合男女などの恋愛関係に入れ換えて構成されている。いわば性差や親等を相対化して自由に扱う事で独創性を担保しているともいえる。

本来それらは作詞の技巧面の話でしかなかった筈だが『真夏の通り雨』でヒカルはそこから一歩踏み込むようになる。作詞上のトリックだった筈のものが実際の心理(人格)構成に於いての実践として捉えられるようになっていく。これは特に難しい事ではなく、ヒカルが直接独自に言う通り親子の愛情を会得する事で例えば男女間の恋愛感情の萌芽への切っ掛けとする、といった話だ。まさにヒカルの伝統的な作詞そのものである。

ここに到る中で、少数派であった「女性を勇気づける歌」の立ち位置もまた変わっていく可能性がある。

前回の日記のタイトルは『Poppin'』からの引用だが、パーティーをしてボトルを空けて「女の子は男の子より優れている(事もあるよね?)」と呼び掛けるそのトーンは、日本語の歌から最も遠い、有り体にいえば"Americanize"された曲調に彩られている。それについてそもそもを考えると、日本には、日本語圏にはそういった力強い女性観(自画自賛)というものの育つ土壌がなかったのではないかという思考の飛躍をしたくなる。

今回のInstagramが英語のメッセージとともに呼び掛けられたものであると想起しよう。『くま'ず・ぶっく・くらぶに入りたい人居る?』─もしかして、ヒカルが"join"という単語を使ったのは初めてかもしれない。そこまでは流石に確信は出来ないものの「珍しい!」と思ったのは確かだ。クラブに加わる加わらないというような言い方もくまのこ教以来か。それと『Poppin'』の“男女を分ける”感じに通じるものを感じるのだが…という話からまた次回、かな。ちょっとわかんない(笑)。