無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

無意識日記の無意識な日記ぶり

停電は怖い。どれだけ普段電気のお世話になっているやら。それがピタッと止まるんだからね。台風15号の影響でまだまだ生活がたいへんな皆さん、早く元に戻れますように。なけなしの充電でここを読みに来てくれる方がもしいらしたら涙が出るほど嬉しいけれど、だからといって私がいつもより面白いことを書ける訳じゃないからね(笑)。普段通りですよ。

「無意識日記」というのは「日記のつもりで書いていた訳ではないのだけれど、言われてみれば確かに日記のようなものとしても読めるねぇ」というヒカルが自らの『Message from Hikki』を振り返った時に綴った際生まれた熟語だ。それを貰った私はその流儀に倣って、いつも普通の日記のようなものは書いていない。しかし読み返してみるとちゃんと日記としての機能が自らに対して感じられる。よく出来てるなぁ、と。

何かを意識する、というのは難しい事態を孕みがちだ。意識的に集中しなければ何も出来ないが、かといって意識を集めるべき場所を間違うと失敗する。

スポーツで「勝ちを意識すると負ける」なんてのは典型的だ。例えば卓球でマッチゲームの9-3、相手は8点取らないといけないけど自分はあと2点取れば勝てる。これは勝ったも同然だ、と思った瞬間、そこに敗北の影が忍び寄る(実際この間のTリーグで早田ひながこのスコアから負けた)。「勝ったも同然」は真実や事実ではない。まだ実際には勝っていないのだ。あと2点取るにはまず次の1点を取らねばならないのだがそこへの意識が薄れる。一旦切れた集中力はなかなか戻らない。

日記を書くのも、恐らく私が「毎日日記を綴ろう」と決意して計画していたのならきっと三日坊主で終わっていただろう。ではなく、「書くことがあるので書いてみるわ」と無計画にただ「書く」という動作だけに意識を集中させる時間を毎日確保することで、結果的に「日記として機能するもの」を手に入れたという事でしかない。結果私は恐らく「日記を書きたかったけど結局挫折した人」より遥かに長く日記(のようなもの)を綴り続けている。これを皮肉というのは憚られるが、物事を続ける為の具体的な方法論、そして、続けるにあたって何に意識をもっていくのがいいのかというイシューに対しては幾許かの示唆を与えられ得るかもしれない。

例えばヒカルは歌を作り歌い続けているが、ヒカルがこうやっていった先に、後から振り返って何を成し遂げたかに気づく瞬間が訪れるとするならば、今はまだそこがどこなのか、いつなのか、そして、何を成し遂げるかは全くわからないかもしれない。一方で、(声が実際に出るか否かはさておいて)そこに至っても相変わらず“歌って”いるだろうなという想像もまたしてしまう。それは少し不思議なことだ。意識していたのかしていなかったのかわからなくなるところに辿り着くその時。それが歌ならではのことなのかどうかは、それこそわからないが、本当にやりたかったこととは成し遂げた時にそれが本当は何であったのかを知られるのかもしれない。その時までは兎に角ただ生きる事だ。途中で辞めた人を責めはしない。ただ、これを読んでいる貴方は今、生きている。明日も明後日も明明後日も、これを読んでいる瞬間は。ただそれだけのことなのだ。