少年漫画への愚痴の定番として「やっぱり血筋かよ」というのがある。時に不遇に見える出自を持つ主人公も後に物凄い大物の息子だったり孫だったりということが判明する展開に、結局凡人は敵わないんだなぁと残念なような安心するような溜息を吐いたりのな。宇宙人や竜魔人の子じゃそりゃ勝てんわなと。
我らが宇多田ヒカルさんもまた「やっぱり血筋かよ」の系譜だ。その最たる例でもある。特にこの日本では戸籍制度の名残もあり独特の血統に関する意識があるようだし、どうしてもそこは外せなく。21世紀になり個人を尊重する文化を声高に叫んでいてもやっぱり血縁は重要、という事になっているらしい。
その血縁もDNA鑑定という荒業によって揺らいだり逆に強固になったりという感じなのだが、ヒカルさんの場合土地や社会に安定や安寧や帰属を求められなかった代わりに「家族」という単位に強い意識があったというか。よく昔はスタジオで宿題をしていたエピソードが披露されるが、それはつまり放課後に親についていっていたということでもあって、自分の周りを思い出すと宿題をする年齢の頃といえば放課後は友達と遊ぶとか塾に行くとか或いは家の商売の手伝いをするとかそういうパターンが多かった気がするがヒカルの場合はその「お家のお手伝いをする」に近かった訳だな。
血縁と家族と。そういう風に言ってしまうと結構伝統的な価値観に則った生き方だったのかなという気もしつつ、家風というのか、リベラルで自由(気まま)な両親の気風もありで、独特の育ち方をしていたのだろうなという感じはある。
とはいっても、1999年当時などは、宇多田ヒカルが藤圭子の娘であることをレコード会社が隠している訳ではないのだけど積極的に打ち出さなかった事もあり、二世タレントみたいな扱いは皆無だった。壮年世代は幾らか食いついたが、その頃の音楽のブームといえば20代くらいの若者が牽引するという風潮もあり、支持者の核はそちらだった訳で、血縁血統家柄みたいな話とは寧ろ対極にあった。
そういう流れだったのだが、2013年に潮目が変わる。そこからヒカルは母への思いを前面に押し出すようになり(ファンからすれば2010年の『嵐の女神』が決定的だったのだけれど)、二世タレントというより二代目音楽家としての扱いが増えたように思う。ここで少年漫画読者宜しく「やっぱり血筋かよ」と呟く人が増えたかというとそんなことはないとは思うけれど、なんだろうな、「生まれながらにして別格」というイメージは、もしかしたら今の方が強いのかもしれないな。若いファン、新しいファンは『Fantome』『初恋』のかなり成熟した音楽性とキャラクターから接するので最初からなんか大御所ではないけれど、デッカイ存在に見えてたりするのかな。ライブでのMCを観れば、そういう感じではないとわかって貰えるのだろうけども。
結局は、藤圭子と宇多田ヒカルの関係性を理解するには既存の枠組みではあんまり役に立たず、だからこんな日記も必要なんだろうなとしみじみ思ってみたりもしています。当て嵌ったり、当て嵌らなかったり。親との関係で悩んでいたりする人にはよく響くのかもしれませんね。通奏低音として、ずっと考えていきますよっと。