無意識日記々

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The Greatest Comedian Passed Away.

しむらがしんだ。あー今度こそ本当なんだな。過去幾度も死亡説のデマが流れたが、結局はなんでもなかった。今回もそれだったらよかったのにな。

自分にとって、自分の世代にとって、コメディアン・志村けんはウルトラ・スーパースターだ。毎週「8時だョ!全員集合」を観ていた。オープニングで停電になって「8時9分過ぎだョ!全員集合!」というコールで始まった回も覚えているし、54分間ずっと停電で結局放送されなかった回も覚えている。それでも私はチャンネルを変えようとしなかった。それくらい魅了されていた。こどもには麻薬のような番組だったのだ。

何度も書いてきているが、加藤茶志村けんによるヒゲダンス、そのテーマ曲「ヒゲのテーマ」は自分のルーツ・ミュージックのひとつだ。ベースという楽器が好きになったのもこの曲の影響だ。これがテディ・ペンダーグラスの“Do Me”のイントロのリピートだと知ったのはずっと後の事だったが、この曲が流れ出してくると踊り出すしかなかったのよ。幼稚園児の頃である。

ドリフターズは元々音楽グループで、ミュージシャンたちが成り行きでお笑いの世界に突っ込んでいったようなものだったが、志村けんだけは少し違った。既にお笑いコント集団としての名前と地位を確立した後に荒井注の後任として加入した、いわば最初からコメディアンとして期待された人材だったのだ。実際、「全員集合」や「ドリフの大爆笑」が終息していった後も頑なにお笑いの世界に拘り続けたのは志村ひとりだった。

勿論音楽への造詣も深くソウル・ミュージックに傾倒していたのは有名な話だろう。先述のテディ・ペンダーグラスもそうだし、「生麦生米生卵」でお馴染みの早口言葉のテーマ曲はウィルソン・ピケットの“Don't Knock My Love”だ。後年この曲はマーヴィン・ゲイダイアナ・ロスによってカバーされた、と繋げればイメージが湧くだろうか。こちらも“ヒゲのテーマ”同様ベース・ラインが印象的な楽曲である。志村の直接の選曲かどうかはわからないが、一枚噛んでいるのは必至であろう。

8時だョ!全員集合」といえばコントの合間に舞台転換の時間稼ぎに歌手を呼んで舞台前方で歌ってもらうのが恒例だった。そのままその歌手がゲストとしてコントに参加することもあった。往年の藤圭子もそうだった。昨年のインタビューだったか、仲本工事が「体操コントがレギュラーになったのは藤圭子との体操コントが面白かったから」とかなんとか話していたが、こんなところにも関わりがあるというのが芸能界の面白いところだね。

照實さんは志村と歳も近く、同じ世代の音楽を聴いて育ってきた筈だ。この人何故か結構有名なミュージシャンたちと顔見知りだったりして侮れないのだが、もしかしてバンド時代のドリフターズのことも知ってたり……しないか。ちょっと訊いてみたいよね。

で、肝心のヒカルは志村との共演はない、筈だ。取り敢えずあたしは覚えが無い。高木ブーは『トレビアン・ボヘミアン』に来てくれてたんだけどねぇ。又吉ショートフィルムから察するに、ヒカルが志村とコントしていたら大爆笑必至だっただろうな。その機会は永遠に喪われた。誠に、残念だ。

それにしてもショックだわ…。個人的な事になるが(テメーの日記だからなっ)、自分の頭の中に残っているいちばん古い記憶が「2歳の時に“飛べ!孫悟空”をテレビで観ていたこと」なのだ。西遊記を題材にしたドリフターズの人形劇である。もしかしたら後年なつかしの番組特集なんかで見た記憶と混同しているのかなと一瞬思ったが、3歳まで暮らしていた家の部屋の様子と一緒のまるごとの記憶なのでほぼ間違いないと思う。2歳の頃だとテレビという物体を独立して捉えられていなかったので、部屋の様子と番組の内容が渾然と記憶されているのだった。

斯様にザ・ドリフターズは幼少の頃の記憶に深く刻み込まれている。メンバーのうち、荒井注いかりや長介に続いて志村けんも逝ってしまった。最年少なのになぁ。あたしも小さい頃は「カラスの勝手でしょ〜♪」と歌っていたし、テレビに向かって一緒に「志村、うしろ!」って叫んでたのよ。当時のドリフはコーナーの見切りが早くて次から次へとお気に入りのコントが無くなっていくのが寂しかったけど、志村けんが亡くなったというのは、その中でも最大の寂しさだ。謹んでお悔やみ申し上げる。今までありがとう─と言い切ってしまうのはまだ自分の中では早過ぎるので、もう少しこの寂しさに浸らせておいてね。