無意識日記々

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嘘も本当も誰にも言わないなら、同じ?

昔も書いたが、「男女」なんてのは「東西」みたいなもので、今いる所から「男っぽい方」や「女っぽい方」に行ったり向いたりは出来るけど、誰も“そこ”に実際に辿り着く事は出来ない。しかも人間の男女間なんてのは地軸がブレブレで、日々(ほんの僅かずつだが)移り変わっていく。そんなものが絶対であるかのように振る舞われ扱われればそれは幾らでも不幸になれるだろう。最初から間違っているからだ。

一方で、それをアイデンティティとして何年も何十年も生きてきた人にそれを突き付けてもいい結果は得られない。信心深い人に「あなたの神様は居ませんよ」と告げてもいいことは無い。自然と信じなくなるまで待つしかない。だが大抵、信念より人生の方が短い。どこまでも、遣る瀬無い。

『誰にも言わない』というタイトルが、ここで重く伸し掛る。この歌詞が仮に実話に基づいていたら、この歌はその約束を破っているのだ。リスナーに言っているのだから。従って、もしヒカルが約束を破るような人ではないのなら、この歌は全く実話とは関係ないフィクションである。つまり、リスナー間で宇多田ヒカルが「約束を破らない誠実な人」であるという相互認識が確立されているなら、アバンチュールは起こっていない。

だが、あなた、ヒカルさん。昔ラジオで「私浮気したことあります」って言った事あるんよねぇ。まぁ、「パートナーが途切れた事がない」≒「重なってる時期が必ずある」だから自明と言われれば自明だったんだけど。その過去がある以上、『誰にも言わない』の歌詞は“疑わしい”。

とてもシンプルなパラドックスだ。この歌をPop Songとして歌ってよかったのか。大手企業のCMソングとして全国で流し続けてよかったのか。フィクションであるなら、何故、では、この歌を丹精込めて作り上げる必要があったのか。ドラマ主題歌の『Time』と違って『誰にも言わない』は天然水が相手だから何を歌っても構わなかった筈なのに。それを考えると、何もわからなくなるのだった。

何があって、何がないのか。何がなかったのか。誰もわからない。信じる心と、疑う心。『誰にも言わない』という約束は、どこかで、何かの意味で、本当に守られたのだろうかな。