無意識日記々

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庵野秀明という男…の子?

庵野宇多田対談を通じて、私はどこか庵野監督にずっと共感していた。いちいち彼の言うことがもっともだなと思いながら聴いていた。一方でヒカルについては、特に何も言わずに庵野監督の話を聴いている時に何をどう考えているのかがわからなくて…それで不安になるというよりかは、そのミステリアスさを魅力に感じて楽しんでいた、かもな。こんな日記を7000回以上書いておきながら、ヒカルについて思うのはいつも「やっぱりわからない」の一言に尽きるのだった。それはさておき。

庵野監督の言う内容、喋り方と間のとり方をみていて、60歳くらいになると脳はこういう状態になるのだろうなというのを何か何処か実感として感じていた(誕生日過ぎたからもう満61歳か彼は)。何がどうというのはわからない。しかし、物事の捉え方が経験と理解の集積の結果として、何ていうのかな、そうならざるを得ないというか、もうそれはそうなるだろうからそう言いますよという感じだった。

そのあやふやまでに抽象性の高い感覚が、彼の「新世紀エヴァンゲリオン」での肩書き、「総監督」ってのに相応しい感覚だなとひとりで合点がいっていた。何人かの監督たちすら監督するという意味では「超監督」とでもいうかな。現場に居合わせなくても、庵野総監督が思い描いた…違うな、未来に逢えるであろう結果としての「作品」を実現させるためのプロセスを生んでいく事ができるような、そんな言動の繰り返し。それが彼の仕事、いやさ生きていく上での営みだった。彼が碇ゲンドウをゲンドウと名付けたのが妥当だったんだとよくよく痛感したよ。

彼の「総監督ぶり(超監督ぶり)」は、どうやら『One Last Kiss』MV制作でも発揮されていたようで。彼は対談中頻りに「あれは編集の辻田(恵美氏)がやった」と繰り返していた。自分は何もしていない。メールのやり取りをしただけだったと。それは謙遜でも何でもなく事実なのだろう。だから彼は躊躇いなく、いやそれどころかこれだけは言っておかねばという勢いで何度もその点を強調した。あれは彼女の手柄なんだと。

しかし、当たり前だが、庵野秀明が居なければ『One Last Kiss』MVは完成していない。それはスタジオでの編集作業のみならず、もっと大きな視野に立った時に─彼が居たからMV制作の依頼が舞い込んできた、という超絶基本的な所から、やはり彼が居なければいけなかったのだなと痛感する。メールひとつ、言葉ひとつで、彼はあるべき姿を…コントロールするというのでもないな、自然な流れをそこに感じ取って無駄に抗う事はしないと素直に決めて動いていたような気がする。そんな明鏡止水な境地に立って、彼は総監督の仕事を全うした。「余計なことは何もしない」というね。物事全体の流れを感じて、その中で自分がどこかで「そっと手を添えて」おけば、もうそれで作品が仕上がっていくのだ。人に指揮するでも命令するでもないし、かといって好き勝手に自由にさせるでもない、“あるがまま”の状態のうちのありうべきひとつの中に作品が完成する未来を見出してそこに近づいていくというか。いやはや、巨匠だな。こういう人は天候に恵まれていくのよなぁ。降って欲しい時に雨が降り、晴れて欲しい時にカラッと晴れる。別に天候を操れる訳ではないのだが、肝心要な時には自然と「そうなる」のだ。それは「不思議なことに」ではなく「不思議なことに全く不思議でなく」そうなっていく。天才が還暦を迎える頃ってあんな感じなんだなと。嬉しい。

ヒカルは、今そういう段階にはない。もっと更に別次元の何かにならんとしている。ただ在るだけというか。

さてこのあと日付が変わればもっと世俗的な話題に移っていくのかな。女子としての美の追求か。どんな展開になるんだろう。そんな事を素直に期待する為に、今夜は庵野監督のキュートさに迫っておきました。すごい才能だねやっぱ。人類史上最高の映像作品を作る/作らせる/生み出させただけあるわぃな。