嗚呼、飲ん場稲荷発言(なんだそりゃ)がプチバズってんのね。本来なら「知ってた」だけで済ますとこだけど…やっぱそれで済ましとくか。
あと新曲の音がもうどこかで流れてるようだけどレーベルから発表あるまでは聴かないのであしからず。これもいつも通り。毎度言ってる事だがヒカルの嫌がる事は出来るだけやらない。何故ってこの日記がもう既に最大級の嫌がらせかもしれんからなぁ。そんなつもりはないのだが、結果的にそうなってるかもしれんからなぁ。耳の痛い事が言えてるなら、でも、それはそれで有用だろうからいいか。
という訳でオーソドックスに庵野宇多田対談の話でも。
「ほへー」と思ったのは、珍しく(?)長広舌をふるう庵野監督を見つめるそのヒカルの顔だ。昨年のインスタライブでもある程度は聞き手で役を担っていたが、一昨日ほど相手がずっと喋っている事はなかった。そのヒカルの「聞き手としての顔」がとても新鮮で、何よりそれが美しくて見蕩れてしまった。(余談だが「みとれる」には「見惚れる」という漢字もある。こちらはそのまま「みほれる」と読んでもいいんだと。あれまややこし。)
元々ヒカルの顔面の楽しみといえば私の場合は特にそのころころ変わる表情が大好きでそれをいつも眺めていたのだが、こうやって眉根ひとつ動かさずにじーっと同じ顔をしているのを眺めるのもなかなかにいいもんだ。そしてこの美しさが、なんというのだろう、包容力を感じさせるというか、普段息子が長々と何かを話す時もこうやって聞き耳を立てているのかなと思わせる、そんな穏やかな優美さと落ち着いた誠実さを湛えていたのだ。ヒカルはパイセン問答でダビンチの名画「洗礼者ヨハネ」に感動した(なんてことなくはなかった)と語っていたが、あんたの顔面も同じように美しいでしたぞ。
そしてそれが、新しい一面にも繋がっている気がしていたり。聞き手としての顔に不安が無かった。相手が何を言ってくるのかドギマギしているという風ではない、恐らく、どう来られても大丈夫な感じ。『PINK BLOOD』の『他人の表情も』『もう充分読んだわ』というのはこれのことかなと思わされた。一昔前ならもっとまんまるお目目をクリクリさせて相手の出方を窺っていたような気がする。
なので、資生堂のような企業のCMに“出演”すると知った時、「いよいよだなっ!」という「やっと宇多田ヒカルの美貌に気づいたか」という感慨と共に「今という時機にドンピシャかも!」という感想も生まれた。つまり、今のヒカルは、そんなに表情を造らなくてもそのまま彫刻になって美しいような見た目をしている、ということだ。それは、ある意味、自信に満ち溢れているというか、少々の事では動じない雰囲気を身につけつつあるのではないかなと。こういう時に(ピンナップやコマーシャルメッセージの)モデルとして大事なのは、日頃の鍛錬やメインテナンスも勿論だが何より自信/コンフィデンスなのではないかな、とMTVのレポーターを務めた時のことを思い出しながら思ったのでしたとさ。
とはいえ、本当のところはどうなっているのか、いちばん確かめなくてはならないのがライブコンサート会場でのMCになるだろうな。そこでまた昔からのようにちゃんとオドオドしてくれるような予感もまたあったりして、果てさてヒカルはここから二年くらいどんな変化をしてきていて、ここからどんな変化をしていくのか。新しいフェイズに入っていきながらその途上でニューアルバムが出そうでそのダイナミズムが楽しみだったりしますわぃ。