無意識日記々

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本日5/9は『愛す』の日

Twitter上の議論みたいな言い合いの99.999%くらいは「その人とその人、別の人よね?」という呪文を唱えると消え去る。

俗に言う「主語がデカい」というヤツだ。ある人の発言に対して「男はこう言う」「女はこう言う」だとか「日本人はこれだから」とか「撮り鉄ってさぁ」とか属性で一括りにした主語を出して議論を始めるとさぁ大変。2~3ステップを経る頃には対象が混乱している。具体例を挙げるとひたすら疲れるので何のことかわからない人はごめんなさい。

だが、この「主語をデカくして対象が入れ替わる」というヒトの「欠点」は、ここまでヒトが繁栄する原動力にもなっている。「旅人はもてなそう」「老人は労ろう」「困ったときはお互い様」「同じ氏族だから援助しよう」─こういった道徳の数々は、受けた恩をその属性を持つ人々総てに返すシステムによって成り立っている。受けた恩を別の人に返すシステムによってね。

それがいちばん発揮されるのが子育てだ。こどもを生んで育てるのは大変だ。損得で言えば損ばかりだが、「自分も親にそう育てて貰ったんだから」という連鎖で成り立っている。親から受けた恩を子に返すことでヒトはここまで繁栄してきたと言ってもいい。教育が重要になった近現代の話と言ってもいいが。実際に世話になった親という人ではなく、ただ生まれてきて泣き喚いて己の要求ばかり主張する存在に尽くすのだから打算的な人には無理な話なのですよ。

…なんだろう、こういう話題、独り身な自分には刺さるな…読者の人にも刺さってる気がするな…。

そんな諸刃の剣で「その人とその人って別の人よね?」システムは今日も元気に稼働中だ。善し悪しについて論じるのは難しいけれど、いやでも普段の議論はちゃんと主語を固定した方がいいですよ?

という話をしたのは他でもない、ヒカルさんの歌詞のテーマとして「親子」が重要という耳タコなポイントに加えて、これからはもうひと世代下った「親子」の方が歌詞のテーマの中心になっていくからだ。既に6年近く前の(もうそんなになるんだよ)『あなた』から口火が切られているよね。

「その人とその人って別の人よね?」システムは、逆から見ることも出来る。「別の人だと思ってたけどあれそれ私のこと?」っていうね。何が言いたいかというと今後のヒカルさんは、前々から自ら描いてきた娘として母(と多分たまに父)を見上げる目線を、「息子に当て嵌める」ターンに入っていくということだ。宇多田ヒカル藤圭子を尊敬と愛情をもって見上げてきたように、ダヌくんも宇多田ヒカルを尊敬と愛情をもって見上げていくだろうから。全く同じではないにせよ。

もっと言えば、今と未来のヒカルは昔のヒカルの熱烈な視線に果たして耐えられるか?という話。勿論、ダヌくんが歌手を目指すとか決まった訳ではないだろうしそういう意味で尊敬の眼差しの質は異なるだろう。それに、ヒカルはダヌくんのことを悪魔呼ばわりしていないだろう。そこは全然違う。

だけれど「愛されることの重み」を、過去に自らが母を愛した熱量によって思い知らされるというのは、恥ずかしさもあるかもしれないけどやっぱり「責任重大」なんだと思うのだ。この風景は、『relationship with myself』、「自分自身との関係性」の発展形のひとつになるかと思う。『PINK BLOOD』はどちらかというと現在の自分が現在の自分自身に対してどう振る舞うかというのが主なテーマだったように思うが、そこから更に過去の自分との関係性及び未来の自分との関係性にまで視野が広がっていく。そこから更に「こうであったかもしれなかった」という仮定過去の自分、みたいなのまで考え始めたら…それは行き過ぎかな。

こういうものの見方をすると結局『Deep River +』の散文詩に行き着くよね。

https://ameblo.jp/smile-smile-smile-world/entry-11610578954.html

『然るに人が一生の中で最も愛すのは

 世界で一番似ている人───自分の子供。

 私は、子供だ。』

ここの部分を切り出すと、19歳の時点でヒカルは今の状況を予見していたかのように思われる。「その人とその人って別の人だよね?」─でも、限りなく近い。どんな風に子を、過去の自分を愛すのか、これからの歌詞の変化に注目していきたいですね。