無意識日記々

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1st Love, 1 last kiss

今日は初期アナログ盤3枚の発売日。『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』だね。

そして1年前の今日はEP『One Last Kiss』の発売日でもある。『最後のキスは』の『First Love』とその『One Last Kiss』("最後にもう一度キスを")の発売日が22年の時を経て被さると騒いだな(主に私が)。

それにしてもヒカルの歌には「キス/Kiss』がよく出てくる。ラブソングを書いていたら普通なのだろうか。確かに、性的になりすぎないギリギリで踏みとどまれる≒ポップ・ミュージックに向いてる単語という気はするが、別にその流れでキスせんでもええやんというとこでもやっぱキメは要るでしょというノリで繰り出してくる事が多い。『大空で抱きしめて』の『でも最後と言わずにキスをして』だなんて劇的だし、『誓い』の『Kiss me once Kiss me twice Kiss me three times』なんて3連発ですよ。ちょいとくどい。

これなんでなのかなぁと常々思ってたんだけど、前回の日記を受けて考えてみると、「口づけ」という象徴が「口と口を繋ぐ証」として機能しているのかもなとふと気がつき。

声が出てくるのは言うまでもなく口からだ。その口同士が繋がり合うというのが、もしかしたらヒカルには──多分幼いヒカルには、母と自分の声の繋がりに対する視覚的な象徴として機能したのではないだろうか? 言っててやや自分でも懐疑的だが、ヒカルもそれに対して無自覚だとしたらとはちょっと考える。

フロイトの発達理論の分類によると「口唇期」なる時期がある。彼の学問の実効性はここでは置くとして、脳が早熟だったヒカルの記憶の中にこの口唇期の頃の寂しさや憧れや幸福や充足や満足といった感情が、母のイメージと共に強く残ってるのかもしれない。ユングフロイトを持ち出すと相手の無意識の所為に出来るので相手が反論してきても無敵になってしまい話がつまらなくなるという致命的な欠陥があるので当日記は無意識日記と銘打ちながら極力彼らの話題は出さないようになっているのだが、長年宇多田ヒカルの「キス多用の不思議」を抱えてきた身としては取り敢えず(あやふやでも)仮説をひとつ立てられたので覚え書きとしてここに記しておく次第。でも16歳のデビューアルバムから「最後のキス」と歌ってて38歳になっても「ワン・ラスト・キス」と言っているくらいだから、ヒカルにとってキスは「最後の別れ」の象徴であり続けてるんだよねぇ…。