『Find Love』と『Face My Fears』の日本語訳に関しては事態がややこしい。それぞれの楽曲に日本語バージョンと英語バージョンがあって、更に今回それぞれの英語バージョンに対訳がついたから、見た目だと日本語の歌詞が二つずつ存在することになる。今どのバージョンの話をしてるのかしっかり整理していかないとだわ。
逆に、言語が同じになったことでそれぞれの歌詞の比較がより明瞭になるのはかなりのメリットだ。
例えば『Face My Fears(English Version)』のこの歌詞、
『Watch me cry all my tears』
をヒカルはこう訳した。
『ありったけの涙、流すでしょう』
いやこれほんと、本人のだから当然かもしれないけど、うまく訳したなぁと。『all my tears』が『ありったけの涙』ね。ありったけはあるだけ全部ってことだから、ほぼ直訳なんだけど、このワードが出てくるかどうかだなぁ。翻って『Watch me cry』は直訳だと「私が泣くのを見て」となるところを大胆に『流すでしょう』ときた。これは本人ならではの“思い切り”ですわね。その時になったらそうなる、というのを詠嘆的に予言する口調というのか、未来を感じさせる訳し方で。
これと対比されるのが、今度は『Face My Fears (Japanese Version) 』、日本語バージョンの冒頭の歌詞だ。
『ねえ どれくらい
ねえ 笑えばいい
今伝えたいこと よそに』
ここは、一言で言えば「笑って誤魔化している」場面である。他に何か伝えたいことがあるはずなのに、いつまで経っても笑ってやり過ごしている、こんなことがずっと続くのか?という、宇多田ヒカルならではの「1番Aメロでの問題提起」である。(例えば『初恋』の『どうしようもないことを人のせいにしては受け入れてるフリをしていたんだずっと』とか…ってこれ2番の歌詞かw)
この"問題提起”の1文を受けて、今度は英語バージョンの方の
『そう長くない、長くない
私はもうすぐ此処
ありったけの涙、流すでしょう』
の段落がある、と解釈すればどうなるだろう? この2曲の関係性がより明確になるのだ。
「笑 ≒ 建前、嘘」
「涙 ≒ 本音、真実」
この対比こそが、『Face My Fears (Japanese Version)』と『Face My Fears (English Version)』の2曲の関係性の軸を構築している。もうちょい踏み込んで言えば、この2曲は、同じテーマをそれぞれ対極の側面から描いた関係性となっているのがこの対比で見えてくる訳だ。
この点は、日本語訳が無い時点でも指摘する事が出来たが、この
『ありったけの涙』
という名訳によって、隠していた本音が奔流の如く外に溢れ出してくる感覚がより明解になり、日本語バージョンの「取り繕う笑い」との対比が更に鮮やかになった。英語バージョンの日本語訳を発表することで日本語バージョンの方の歌詞もより理解が深まるという、事前には予想もしていなかった展開。ヒカルはそこまで意図していたのだろうか? だとしたら恐ろしいね。Face My "Fears"だけにっ。