無意識日記々

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健やかなるときも病めるときも

昨日から(一昨日時点では大丈夫だったので)NHKワールドのオンデマンドサービスが技術的問題とやらで停止している。「ご不便をおかけして申し訳ありません。」だそうな。受信料払ってる身としてはクレーム入れていいやつなのかな?(威圧)

外で映像チェックするときはHPにアクセスすりゃいいやと油断してたわ。うーむ、やっぱり地上波放送された時の録画が要るな。日曜深夜24:25からの放送はしっかりと『よ・やっ・くぅぅ~♪』しておかないとですわね。それ歌いたかっただけですねあなたね。

してその「SONGS OF TOKYO」でのハイライトのひとつといえば、前もちょっと触れたオランダのyouriさんのからのビデオメッセージですわね。国や言語が違ってもヒカルさんからもたらされるエモーションは共通するんだなと痛感させられた。いじめに遭った時も(bullyingっつってたか)祖父母さんを亡くされた時もヒカルの歌が心の拠り所、safe spaceだったんだってね。わかる、わかるぞぉ。皆も共感の嵐だったのではないかなぁ。

しかし、これねぇ、裏を返せば人生が安定してくるとヒカルさんから離れていく、っていう事でもあるのよね。心が弱ってた時の支えは、強くなったら要らない。自転車の補助輪みたいなもん? そう思われそうだ。実際離れていった人たちの顔を思い浮かべると…ってしみじみしそうなのでやめとくけどもっ。

どこが分水嶺になるんかなと。心を助けてくれた恩義を感じてそのまま宇多田ヒカルという存在が日常の一部になるかどうか。それこそテメーで決めやがれ案件なんだが、その分かれ方って具体的にどこで差がつくのかなと。

答はわからないが、私個人の感触を綴っておこう。2010年の『In The Flesh 2010』初日公演をパイプライン・カフェで観てる時に「ああ、ここがいちばん居心地がいいな」と思ったのだ私。あの宇多田ヒカルが(UTADAでしたが)手を伸ばせば届きそうな距離に! 後ろ姿のTシャツの背中に浮き出る背骨の影までくっきり見えそう! とかなんとかいう興奮やらあったけど、その安心感が何よりも印象的でね。よく「実家に帰ったような」と形容するけれども、まぁあそこまでダラ~ッと溶けてる訳じゃなく(笑)、単純に自分が感じたまま過ごせばいい空間がそこにあるなぁとね。ヒカルに愛を届ける空間、かな。そして単純に、ヒカルがそこに居て歌っている空間だ。世界の中の他のどの場所どの時間でもなく、たった今いちばん居たいと思える場所思える時間に自分が居るときにどう感じるか、それを思い知った。何かの代わりでもなく、何かを待ったり急かしたり焦ったりもなく、何かに期待するのでも未来を見越すでもない、もちろん過去を悔いたり嘆いたりでもない、たった今そこに居たくて居るだけのシンプルなスペース。なんとも、心地好かった。自分らしく在れるとはこういうことなのだろうと。

youriさんは辛さや悲しみから逃れるsafe placeとしてヒカルの歌を捉えていたが、そんな逃れたい感情に苛まれる事が一切無くなったとしても、いや、無くなった時こそ、ここがいちばん自分らしく在れるのだと思えるならあらためてここに居ればいいのだ。

世の中いろんな人がいるからこそ回ってるのだと痛感しつつも。もし今ヒカルさんから心が離れつつある人がいるとするなら、自分らしさを見失っていないか自問自答してみた方がいいのかもしれない。仮初めの見栄や優越を感じられてそれで満足してしまってやしないか。いやそれも含めて人の人生は自由であるべきなんだけど。結婚式の誓いじゃないけれど「健やかなるときも病めるときも」ヒカルさんの歌は、いいもんだよ。