無意識日記々

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もっと会えたら、もっと和えたら。

「和える」という言葉が好きでねぇ。日本語だと「和え物」の時にしか使わない動詞なんだって?

以下引用。goo辞書より。

1 野菜や魚介などに酢・味噌・ごま・からしなどをまぜ合わせる。「青菜をごまで―・える」

2 まぜかえす。ごたごたする。

引用終わり。

そうね、2の意味はなかなか見掛けないからこれは本当に「和え物」っていう料理ひとつを指す言葉に近いわね。でも私は勝手に拡張していくぞ☆

「うた」が何から出来ているかといえば「し」と「ふし」で。「おと」は「ふし」と「はく」を「あえた」もの、というのが私の歌と音楽の捉え方。歌は詞と節で出来ていて、音は節と拍を和えたもの。「節」「拍」「和」は、西洋音楽でいったら「メロディ」「リズム」「ハーモニー」だね。音楽の三大要素ってやつですね。

その中の「ハーモニー」即ち「和」を動的に捉えて「和える」とすると、日本語でも捉えやすくなるなって。

そこで思い出すのが宇多田ヒカルの『One Night Magic feat. Yamada Masashi』の最後の一節。

『もっともっともっと

 もっともっと会えたら

 もっともっともっと oh

 もっともっと会えたら』

ここの歌詞を、こう解釈した人が居る。

『もっともっともっと

 もっともっと和えたら♪

 もっともっともっと

 もっともっと和えたら♪』

台所で和え物するときにこう歌ったらテンション上がるんですってよ! Hiron @kukuchang によると!(*≧∇≦*)

2006年当時は「ケッサクな替え歌だな! しかも歌う時は一文字だって変えてない!」とただ絶賛して面白がっていたのだが、今週の気分でこれを思い返すと、あれ?これってヒカルの変化そのものじゃない?と気がついたのだ。

「会う」という言葉は中立的で。「会いに行く」という風に、能動性や計画性を表す時には「行く」を添えた方がいい。というのも、「ばったり出会す(でくわす)」のように、「会う」という言葉は意図しなくても(意図していても)時間と場所が同じになってしまう事をシンプルに指すからだ。受動的、自然なことにも使える。

これが「和える」だとどうだろう? これは間違いなく、人の手で異なるモノ同士を「合わせる」「会わせる」「併せる」行為になる。とっても積極的、能動的だ。

今週みてきたように、ヒカルはその意識の領域を自分の身体から更に外に敷衍する段階に来ているように思う。予言性が能動的になってきたとでもいうか、人の手を借りても自分の世界にできるというか。何だか超常的。

『One Night Magic』は、偶然の出会いを見つけにいく物語だわね。どう会うかまではわからない。だがこれが今では自ら「和える」物語になっているのだとすれば、大きな変化になるだろうね。ほんの少しの、いや音自体はひとつも変えていない変化だけれど、大切な変化はいつだって最初は静かに深く人知れずに進行していく。宇多田さんが人心を和えるようになっていくとすると、なんだか心が躍りますわ♪