無意識日記々

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老いと無縁な創作力。老いと向き合う演者力。

前回「老い」の話をした。ヒトとして(ホモサピエンスとして)肉体が衰えるというのはこれからあるだろうが、では音楽家としては何が衰えるのか?という論点は、私は別の話だと思っている。

歌手や演奏家としてなら肉体の衰えの影響はあるだろう。それどころか歌手の全盛期はプロスポーツ選手並みに短かったりする。それはもう日々が衰えとの戦いになるだろう。だが今はそちらの話ではなく、創作家として、作詞家作曲家として人は老いるのかという話。

作詞作曲編曲などの作業は、究極的には楽譜が書ければよい。今やパソコンやタブレットがあるので、筆を握る握力すら究極的には不要だ。瞼と瞳孔が動けば何とかなる。肉体的な衰えが、本質的に創作活動を阻害する事は無い。

が、脳は衰える。肉体は元気なのに認知症になった人の厄介さに日々つきあっている皆さんはその理不尽さにほとほと参っているかと思われる。或いは、足腰が弱って(骨折などで)活動範囲が狭まることで認知症が進行したりね。脳と肉体は、ちぐはぐにだが結局相関しながら衰える。

ならば音楽家としての能力も衰えるのかというと、どうもそこが違う気がするのだ。音楽って、勝手に育つのよ。時に曲作りを子育てに擬える人がいるけれど、それは、自分の手を離れて色々勝手に決まっていくプロセスを知ればさもありなんと思えてくる。

何度となく話に出して恐縮だが、『気分じゃないの(Not In The Mood)』の作詞のエピソードは、作詞家の脳だとか感性だとか勘だとか、そういった事を大きく超えた領域の話だと思う。ヒカルだって、事前にそんなことになるだなんてつゆほども思っていなかったろう。一方で、何とかなる方法を自分で手繰り寄せるというか、そこに自分自身を近づけていく感覚というのが全く無かったとも思えない。ただ言えるのは、それらの様々な感覚というのは、脳の中で創作的な計算や処理が高性能コンピュータのように熱的に盛んに行われていた結果起こるようなものだとも思えないということだ。

ヒカルの「実感」を最近よく想像する。若い頃の作詞は、もっと理詰めで構築的で、ここがこうだからこうなる、という説明がしやすかったように思う…それだけ頭を捻って自分で考えていた実感があったんじゃないか。

今は、なんだかもうそういうことではなくて、そういった計算や処理も勿論あるんだけども、それらをベースに、いやさ苗床にして、何が起こるのかを眺めている時間帯が増えているんじゃないかと思う。つまり、知恵熱出してウンウン唸って答を導き出す時間帯より、「経緯を見守る」為に費やす時間帯が増えているのではないか。それが今のヒカルの、創作に於ける実感なのではなかろうか、と。

そうなってくると、作詞者本人の能力、脳力と書いた方がいいかな、それが発揮されるとか、若々しいエネルギーが満ち溢れて活動的だとかいったモードにはならずに、ただ出掛けて、向こうからアイデアがやってきて、それを書き留めるだけという、それだけなら誰でも出来る(あなたの前に詩を売る人がやってきて来たときにあなたがそのことをただそうノートに書き留めるのにそう労苦は要らないだろう!)事をするだけなら、脳は少々衰えていても大丈夫な気がする。

一方、出来た詞の威力は凄まじい。これまた何度も強調して恐縮だが、私は『気分じゃないの(Not In The Mood)』の歌詞・作詞は宇多田ヒカル史上ベストだと思うし、つまりそれは、『Keep Tryin'』のような手間暇かけまくって偏執的に音韻を構築した歌詞たちよりも、このただその日に起こった事を書き留めただけの、音韻も何もグダグダな歌詞の方が、何らかの意味でより感銘的であると言っているのに等しいのだ。手法でもなく、ましてや作詞者の脳の若さでもないところで、作詞の、作品の質の高さは生まれ得る。音楽に限ったことではないかもしれないが、作品を創作する上での、何か超人的なフェイズが、今宇多田ヒカルの前に拡がっている気がするのだ。

そんな風な解釈でいるので、ヒカルの創作活動に関して、年齢や老いや衰えは、直接的には心配していない。一方で、歌手やパフォーマーとしての旬は、そんなに長くはないかもしれない。長くあっても、結局はいつか衰えるかもしれない。なので、創作に対しては時間の感覚を麻痺させているけれど、実演、ライブ・パフォーマンスに関しては、寿命とか老いとか衰えとか、大いに考えた上でスケジュールを組んで欲しいなとは思う。作詞作曲編曲とは異なり、こちらは「今しか出来ないこと」だらけになっていくに決まってるんだからね。